161 諍いの果て
「沙紀! いい加減、ここから出てきなさい。ねえ、沙紀、聞いてるの? サークルの旅行はどうなったの? こうちゃんだって心配してくれてるのに」
部屋のドア越しに春江の声がする。
昨日の夕方、美ひろの家を飛び出して来て、それからずっと部屋にこもったままだ。
いつまでもこうしているわけにはいかないとわかっているのだが、親の顔も、ましてや康太の顔など絶対に見たくなかった。
明日からは楽器店でのバイトもいつも通り始まるのだ。
外に出れば康太と顔を合わせることもあるだろう。
けれど、今はどうしても部屋から出たくなかった。
何も見ず、何も聞かず、ずっとベッドの中で布団にもぐっていたかった。
何時間そうしていたのか、眠っていたのかどうなのかもはっきりしない意識のまま、とうとう重い身体を起こし、ふうーっと大きく息を吐いた。
ドレッサーに映る自分の姿に笑ってしまう。
あちこちに跳ねた髪に、腫れたまぶた。
夏だというのに青白い顔のその女性は、間違いなく自分自身なのだが、まるで見知らぬ人がそこにいるようで、鏡を指さしながら力なく笑ってしまった。
結局、好きだと思っていたのは自分だけだったのだ。
愛する人は、音もたてずに静かに自分の元をすり抜け、新たな女性の傍らに寄り添っていた。
まさか、まどかが言ったことがこんなにも早く我が身に振りかかってこようとは。
康太もそんな最低な男と同類だったと言うことか……。
よいしょと力なく声を出し、一階に下りて行く。
どうしたの? と沙紀のただならぬ様子に驚き立ちはだかる春江をよそに、まる一日ぶりに、母親の作った食事を口にした。
沙紀は一晩中、その日あったとんでもないことを次々と思い起こしていた。
沙紀にすがって涙を流した星川にもびっくりしたのだが、その後、ふいに抱きしめられ、心のどこかに罪悪感のようなものが見え隠れしているのも事実だ。
不可抗力っだったとも言えなくはないが、避けようと思えば避けられた、と思う。
彼を跳ね除けて、そこから立ち去ることも充分に出来たはずだ。
けれど、そうしなかった自分を悔い、ひどく後悔の念に襲われる。
自分の事を好きだと言っている人に抱きしめられるなど、康太への裏切り以外の何物でもないではないか。
そして、そのしっぺ返しとでもいうような美ひろの母親からの辛辣な攻撃。
とどめが、信じていた康太とのありえない鉢合わせだった。
一昨日、康太が美ひろと一夜を過ごしたというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
木下教授と別れた後、美ひろと再び会うことなど、携帯で連絡を取り合えば簡単だ。
沙紀はもう何も信じられなくなっていた。
今朝も康太が玄関先に訪ねて来ていたのを知っている。
春江が困ったような声で彼に応対しているのも全部聞こえていた。
だが、どんな顔をして彼と会えというのだろう。
こんな状況で康太と向き合ったとしても、また傷つくだけだと尻込みしてしまうのだ。
携帯の電源も切っているわけではないのに、康太からは何も連絡はない。
そのまま一日が過ぎ、二日が過ぎ、気付けばあれからもうすぐ一週間が経とうとしていた。
初めの数日は彼の部屋の電気がついていたのだが、三日目くらいから帰宅が遅いのか、沙紀の起きている時刻に康太の気配を感じることはなかった。
車はちゃんと吉野家の駐車場に二台並んでいる。
康太の使っている白いセダンと、雅人の四輪駆動車が鼻先をそろえて、待機していた。
常に車を移動手段に使う二人なので、そこに車があるということは住人が家にいることを示しているはずなのだが……。
少し前なら、お互いに家を空ける時は犬を預け合うので、留守かどうかは一目瞭然だった。
ところが二年前にポチとコロを相次いで看取ったあとは、家を訪ねない限り在宅かどうかはわからない。
ましてや男二人の世帯だ。
決まった時刻に洗濯物を干し取り入れるということもないので、不在かどうかは外からは判断のしようがない。
沙紀はついにしびれを切らし、洗い終わった食器を拭きつつ、春江にそれとなく隣の近況を訊ねるべく、話をふってみた。
「あら、沙紀は知らなかったの? そうよね、あなたたちケンカしてたんだったわね」
「別にケンカなんかじゃないけど……」
「あれがケンカじゃなくていったい何だというの? いい年して、せっかく来てくれてたこうちゃんに会いもしないで。ホント、大人げないんだから。何か口喧嘩でもしたんでしょ? いつまでたっても子どもの頃のままね。そんなんじゃ、こうちゃんに見限られる日も近いんじゃない? そうね、こうちゃんはね、かわいい彼女とデートでもしてるんじゃないの? あんなにカッコいいんだもの。不愛想な沙紀に構ってる時間なんてないんじゃない? 」
「不愛想で悪かったわね。こうちゃんが誰と付き合おうが、誰と何をしようが、あたしには関係ないし……」
「へえ、そうなんだ。関係ないわりに、こうちゃんのこと、気にしてるみたいだけど。まあ、モテモテのこうちゃんのことだから、彼女がいても不思議でもなんでもないでしょ? 」
「かもね……。どうせ、どこかのきれいな人と一緒に過ごして、鼻の下でも伸ばしてるんじゃないの? あいつも、ただのその辺の男と一緒ってこと」
「あらまあ……。じゃあ、こうちゃんの名誉のために、本当のことを教えてあげよっかな。確か四日くらい前だったかしら。雅人さんがこちらに見えて、ちょっと旅行に行って来るって言ってたわよ。バイクでツーリングなんだって。レストランのバイトも、うまく休みが取れたって言ってたわ。行き先とかは聞いてないけど、こうちゃんを元気付けてくるって。沙紀と冷戦状態で、とても見てられないって、雅人さんが言ってたわ。いったい、どんな理由でそんなケンカになるのかしらね。お互いに遠慮がないから、ついエスカレートしちゃうのかな? ふあああ、眠い。ここの片づけが終わったら先に休ませてもらおうかしら……」
春江はシンクを磨きながら、あくまでものん気そうに話し続ける。
康太がそれほどにまで落ち込んでいるなどとは、沙紀にとっても想定外だ。
美ひろの家で気まずい遭遇をしたことだけが理由ではないはずだ。
大阪で慶太と会って、様々な事実関係がはっきりしたのかもしれない。
それにしても、バイクでツーリングだなんて、これもまた思いもよらない展開だったりする。
康太は原付以外のバイクの免許は持っていないので、雅人の大型バイクに二人乗りをして旅に出たということなのだろうか。
沙紀は部屋に戻り、机の上の携帯を手に取ると、康太からの連絡の有無を確認してみる。
なんという偶然だろう。
ちょうど今、彼からのメールを受信したばかりだった。
康太のツーリングの話をしていたところにタイミングを見計らったかのようなメールの着信に、思わず目を見開く。
ケンカをしていても、離れていても、彼とはまだどこかでつながっているということの証明なのだろうか。
身体の力を抜き、心を落ち着けて、メッセージを表示させる。
最悪の結果がそこに告げられていたとしても、かまわないと思った。
大きく息を吸い込み、携帯の画面を食い入るように見た。