160 逆襲
「あら、沙紀ちゃんも知っているの? あの子があんなところでバイトしてるってこと。本当に困った子でしょ? 」
「あ、いや、そうじゃなくて」
「就職だって一部上場の国内でも五本の指に入る大手食品会社に決まったっていうのに、あんな小汚いレストランがいいって言うものだから、おじさんもおばさんもカンカンに怒っているのよ。沙紀ちゃんからも言ってやってちょうだいな。あんなところで働いても、何もいいことはないって」
「あの、そのことなんですが、あそこの店はとてもいいお店だと思います。料理もおいしくて、店内も清潔で。だからひろちゃんもずっと働きたいと思ったんじゃないかと……。こう……いや、吉野君もそう言ってて」
「それなのよ。私も一度沙紀ちゃんに聞きたかったのよね。吉野君とはお隣さんだもの、あなたなら知ってるでしょ? うちの子と吉野君の……う、わ、さ」
とうとうその時がきた。沙紀は背筋を伸ばし、手を握り締めて覚悟を決めた。
今こそはっきりと否定するべきだと。
「おばさん、誰から聞いたのか知りませんが。そんな噂、嘘です。ひろちゃんと吉野君は付き合ってなんかいません。これは本当のことです」
「あら、沙紀ちゃんったら。おかしなことを言うわね。うちの子と吉野君が一緒にいるところを見たって人がちゃんといるのよ。それも一度や二度でなく、何度も。……もしかして沙紀ちゃん。あなた吉野君のことが好きなんじゃないの? それでやきもちを焼いてるのね。ふふふ。そういうことね」
「えっ? やきもちだなんて。違います。本当に二人は付き合っていないんです。きっと他の誰かと見間違えたんだと思います。背格好も髪の長さも、あたしとひろちゃんは昔からよく似てるんです。だから……」
よく似ている他の誰かとは今ここにいる自分なのだから。
沙紀はお願いだからわかって下さいと祈るような気持ちで母親に訴えかける。
「沙紀ちゃんは、吉野君と高校も大学も一緒だものね。ピアノも彼のお母さんにずっと習っていたのでしょ? うちの子はもっとベテランの人気のある先生にレッスンしていただいていたけどね。吉野君のお母さんじゃ、まだお若いし、経歴もいまひとつだったし……って、こんな話じゃなくて、そうそう。仲良しだった身近な人を取られるような気持ちになるのもわかるわ。実はね、うちの美ひろは吉野君にたぶらかされてるの。その証拠に夕べも帰って来なかった……。きっと二人でどこかに姿をくらましたに決まってるわ」
「ち、ちがいます……」
康太は美ひろと一緒ではなかったと星川が証言してくれた。
けれど母親の思い込みは尚もまだ沙紀を窮地に陥れる。
「でもね、誰がなんと言おうと吉野君はこのあたりじゃ神童だもの。松桜学院の中等部でトップだったって言うじゃない。なのにいつの間にか名門校を辞めちゃって、ぱっとしない北高に編入しちゃうし。東大だって狙えたっていうのに、教育大に進学したと聞いた時には本当にびっくりしたわーー。いったい誰にそそのかされたのかしら? ふふふ……」
口先では笑っているようでも、その目はちっとも笑ってなんかいない。
皮肉をたっぷり込めた視線が沙紀を容赦なく射貫く。
「あ、あたしが吉野君をそそのかしたって、そう言いたいんですか? おばさん! 」
「あら、そんなこと言ってないわよ。吉野君は出世は望めなくても、教育公務員なら将来は安泰だし、美ひろが好きだって言うのなら二人の仲を認めてやってもいいかなと思ってるの。あなたたち三人は小さい頃から仲が良かったから、二人に先を越される沙紀ちゃんの寂しい気持ちもわかるわ。でもこればかりは仕方ないでしょ? これからも美ひろと仲良くしてやってね」
母親は見下したような笑みを浮かべ、話をたたみ掛けてくる。
「おばさん。だから本当に違うんです。康太の本当の彼女は、あたし……」
あたしなんですと言いかけた時、玄関のドアが開き、青白い顔をした美ひろが中に入ってきた。
そして、その脇を支えるようにして立っている康太も一緒にいる。
「こ、康太……」
沙紀は驚きのあまり目を見開き、両手で震える口元を覆う。
そして二人の横を縫うようにして外に出ると、振り向くことなく駆け出していた。
背中越しに、ほらね、と言う勝ち誇ったような母親の声を聞きながら。
家の前には康太の車が停まっている。
沙紀はあまりにも動揺し過ぎたせいで、車の中を覗きこむ余裕もなかった。
助手席に人が乗っていたことにも気づかないまま、一目散に家に逃げ帰ったのだった。