159 誤解
沙紀は二階の自分の部屋から、開くことのない康太の部屋の窓をじっと見ていた。
夏至の頃に比べると日が短くなったとはいえ、まだ近所の公園からは子ども達の元気な声が聞こえる。
それに重なるようにして、住宅街のはずれの雑木林からどこか物悲しいヒグラシの鳴き声も、沙紀の耳に微かに届いた。
結局、高台公園から家の近くまで星川に車で送ってもらい、昼過ぎに家に帰りついたのだが、隣の家の駐車場には康太の車はなかった。
今日は旅行に行く予定だったのでバイトではない。
いったい彼はどこに行ったのだろうかと気をもむばかりで、新たな連絡はなかった。
気になった沙紀は、これ以上意地を張り続けるのも大人気ないと思い、思い切って電話を掛けたてみたのだが……。
携帯会社の女性の声がお決まりのフレーズを繰り返すばかりだった。
そしてとうとう待ちきれなくなった沙紀は、康太の家のチャイムを鳴らし在宅中の雅人に彼の行き先を訊ねに行く。
すると、俺もわからないんだよと言って雅人が困惑した表情を浮かべるのだ。
そして、二人に何があったのか知らないが、どうして旅行に行かなかったのかと逆に責められ、沙紀は不覚にも雅人の前で涙を流してしまった。
あわてた雅人が、もしかしたら康太は大阪に行ったのかもしれない、などと、想像もしていなかった地名を口走る。
康太の父親が仕事の関係で一時帰国していて、昨日までは横浜にいたらしい。
そして今日は大阪入りしているので、今夜家に帰ってくるのが待ちきれなくて、会いに行ったのかもしれないと、意味ありげに雅人が腕を組んでそう言ったのを、繰り返し思い出していた。
彼の父親である慶太が帰国しているのは沙紀にとっては初耳だった。
仕事の関係での帰国なら、急遽決まったのかもしれない。
でも、今の康太が衝動的に慶太に会いに行ったのだとすれば、理由はただひとつ。
あのことを確かめに行ったに違いない。きっとそうだ。
まだしばらくは帰ってこないだろうと康太の帰宅をあきらめた沙紀は、ゆっくりと窓を閉め、あるところに向かうため身なりを整え、家を出た。
そこは歩いて五分もかからないところ。
子供の頃は毎日のように行き来した美ひろの家だった。
突然の訪問だが、美ひろはいてもいなくてもどっちでもいいと思っていた。
彼女の母親に会えればそれでいいと。
沙紀は昔から美ひろの母親が少し苦手だった。
遊びに行けばかいがいしく世話を焼いてくれて、手作りのおやつも出してくれる。
でも楽しいと思えるのはそこまでで、その後の執拗な質問攻めにいつも悩まされていたのだ。
ピアノはどんな曲を弾いているの? に始まって、中学校受験のために通っている塾ではどんな勉強をするのかとか、家でのテスト勉強はどんなふうにやっているのかなどと、成績や進路をやたら気にする母親の態度に、いい加減うんざりしていた。
つまり美ひろの母親は世に言うところの過干渉型教育ママだったのだ。
家には本が溢れ、通信教育はもちろんのこと、学習塾にピアノにバレエ、習字に水泳、英会話まで毎日のように習い事をしていた美ひろは、沙紀から見れば、まさしくスーパー小学生だった。
結局、中学受験はしなかった美ひろは、沙紀と同じ地元中学から公立トップ高校に進み、今は栄養学科で学ぶ、女子大生だ。
その母親に会って、なんとしても昨夜の誤解を解いておきたかったのだ。
結果、康太との関係が明るみに出てもいいと思った。
美ひろの母親の口から、春江や夏子に交際の事実が知られても、康太の背負っている苦しみに比べればなんてことはないとそう思うことにしたのだ。
沙紀がインターホンを鳴らすと、案の定、美ひろは留守だと言う答えが返ってきた。
おばさんにお話がありますと改まった声で告げると、インターホンのスイッチが切れてすぐに玄関のドアが開いた。
沙紀は母親に促されてドアの中に入り、お久しぶりです……と頭を下げた。
「まあ、沙紀ちゃん、お元気だった? 近いのにあんまり会わないんですもの。どうしてるのかなって、ちょうど思っていたところなのよ」
「あ、はい。いろいろ忙しくて……」
「そうそう、幼稚園の先生を目指しているんだってね」
「はい。つい最近まで教育実習があって……」
「そうなのね。でも、幼稚園の先生って、楽でいい仕事じゃない。勉強を教えるわけでもないし。お昼過ぎで仕事も終わるのでしょ? それでお給料もらえるんだもの。こんなにお得な仕事は他にないわね。女性らしい仕事だし、お見合い話もたくさん来るんじゃないかしら」
いきなりの先制パンチに足元がぐらついた。
いったいどこを見て幼稚園の仕事がそんなに楽だと思うのだろう……。
子どもが早く帰ると言っても、今は延長保育もあるし、翌日の準備や職員会議、そして、保護者との連絡で、気づけば外は真っ暗、なんてことは日常茶飯だ。
そして、家に帰ってからも事務仕事に追われ、教材研究も寝る間を惜しんで続き、わずかばかりの睡眠の後、また出勤して……と、今はそんなことはどうでもいいのだ。
仕事の話をしにここまで来たのではない。
沙紀は気を取り直して美ひろ母親の顔を真っ直ぐに見た。
「あのう……。ひろちゃんのバイトのことなんですけど……」
唐突に、康太の彼女はあたしです、ひろちゃんではありません、と告げるのも非常識だと思い、外堀から固めて核心に迫っていこうと遠まわしに話を進めていくことにした。