158 鷹のなみだ
「もしかして、ひろちゃんと一緒にいたの? あの後、ずっと……」
沙紀は一番怖れていたことが起こっていたのではないかと、真実を確かめるべく星川に訊ねた。
「ひろちゃん? 」
星川は、それは誰だというように首を傾ける。
「あっ……。青山さんの……こと。彼は、その……。彼女と一緒にどこかにいたってこと? 」
「青山? ああ、バイト先のね。そうか、吉野と青山が幼なじみだと言うことは、相崎も彼女と知り合いなんだな。ちょっとした三角関係……か」
星川はキラッと瞳を輝かせたかと思うと、意地悪な笑みを沙紀に向ける。
「や、やっぱりそうなんだ。康太は、ひろちゃんと一緒だったんだ……」
「あははは! そうだ、と言いたいところだけど、俺が見た相手は青山じゃない」
「ええっ? 」
どういうことだろう。
美ひろではないとなると、別にそんな女性がいるとでも?
康太は沙紀に隠れて、様々な女性とかかわっていたのだろうか。
沙紀はますます混乱を極める。
「……親父だ」
「あ……」
「親父と一緒だった」
「お、おやじって……木下教授……なの? 」
沙紀は肩透かしを食らったかのように急に身体中の力が抜け、口元の緊張感が緩み、へらっとだらしなく笑ってしまう。
木下と会っていたのなら、別に不思議でもなんでもない。
次のレッスンの打ち合わせでもしていたのだろう。
それが何か? とすっかり安心した面持ちで星川を見た。
「うちの近所のカフェで見たんだ。俺が家に帰る途中でその店に入る親父をたまたま見かけた。時々そこのカフェで、親父が気晴らしをしていたのは俺も知っていたから、ちょうどアメリカに行くことを話すいいチャンスかもしれないと思って、親父を追って俺も店に入ったんだ。そしたら、連れがいるから奥のテーブルに通してくれと店の人に話しているのが聞こえて……。店に入ったものの行き場を失った俺は、入り口に近い奥まったところでひとりでコーヒーを飲んでいたんだ。そしたら……。しばらくして吉野が入ってきた。何を話していたのかは俺の場所からは何も聞こえない。でも親父の思いつめたような表情を見ればわかった。多分……。あのことだろうと……」
「あのこと? ピアノのレッスンのことじゃないの? 」
「違う。……でも俺から話すことじゃない。吉野本人から聞け」
そう言ったっきり、星川は黙り込んでしまった。
何か言いにくいことなのだろうか。
もしかして……。勘のいい星川のことだ。
康太の母親と木下の過去を彼も知っていて、そのことを言っているのかもしれない。
プライベートな話は、いくら息子とはいえ、第三者の沙紀に大手を振って話す内容ではない。
それに……。信じ難いが星川は木下の実の息子ではないとも言っているのだ。
星川にとっては木下にかかわるすべてのことがらが、背徳的に映るのかもしれない。
木下の過去は何であっても許せないのだろうか。
沙紀は星川の言葉通りに事実を受け止め、今からすぐに家に帰って、康太に事の真相を訊ねようと決心した。
そして美ひろとのことは何もなかったと信じることにしたのだ。
「部長。あたし、もう帰ります。康太がひろちゃんとは何もないってわかってるのに、あたしが勝手に大騒ぎしちゃって……」
「相崎、待て。今日一日、俺に付き合ってくれるんだろ? 君は了解したはずだ」
星川の手が沙紀の手に重なり、ぎゅっと握りしめてくる。
「部長……。何してるの? あたし、帰らなきゃ。離して! ねえ、離してよ! 」
「お願いだ、話を最後まで聞いてくれ。俺は、俺は……」
沙紀はベンチに座ったまま星川に抱きしめられた。
そして彼が沙紀の肩に顔を埋めて、俺は、俺は……と言葉を詰まらせるのだ。
泣いている。
あの星川が泣いている。
沙紀はあまりのことにびっくりして声も出ない。
自分の身体にすがるようにして嗚咽を漏らす星川を突き放すことも出来ずに、そのままただじっとしている。
康太と木下が会っていたことがそれほどにまでショックだったのだろうか。
本当の父親でない上に、過去の女性の息子と会っているのがそんなに許せないことなのだろうか。
が……。
その時、沙紀の脳裏に、あるとんでもない考えがよぎった。
康太が一時、自分の生まれた月日にこだわっていたことがあったのを思い出したのだ。
そして、その疑問点を彼の両親に問いただした時、一緒にその場に居合わせた沙紀も康太の両親の異様なまでの過敏な反応に、少なからず違和感を覚えた。
もし、沙紀が今思い浮かんだことが本当だとしたら……。
康太が、木下の子どもだとしたら……。
すべての辻褄がピタリと合う。
星川の苦悩も、これで説明がつく。
星川と、康太と。
二人の悲しみと苦しみが、一挙に沙紀の心の中になだれ込んできた。
「相崎……。悪かった。いったい君に何を話そうとしているんだろう。話したところでどうにもならないことなのに。今日は、ありがとう。もう帰った方がいい。最後に俺の本心を聞いてもらってもいいかな」
彼が身体を離して、沙紀をじっと見て言った。
沙紀はコクッと頷いた。
話を聞くだけなら自分にも出来る。
星川と会うのもこれで最後なのだから。
「本当は相崎に、一緒にアメリカについて来て欲しかった。吉野から無理やりにでも君を奪って連れて行きたかった。俺ほど不幸な人間は、他にはいないと思っていたから。でも、そうじゃないってわかったんだ。去年あたりから親父のことをいろいろ調べたんだ。血のつながりはないとはいえ、ここまで俺を育ててくれた人にはちがいない。あんなに憎いのに、嫌いで嫌いでしょうがないのに、気になるんだ……親父のことが。まだ俺の想像でしかないが、親父には実子がいる。本当の血の分けた子どもが……。ならば俺はもう日本にいない方がいいと思った。そつも俺と同じように、小さい頃からいろいろ悩んだとすれば尚更だ。俺だけが世界一不幸な人間だったと思っていたことが急に恥ずかしくなった。そいつから無理やり君を奪うことはできないと思った。だから、今日一日だけ、こうやってすべてをさらけ出して、そして気持ちにふんぎりをつけるつもりだった。だから……。沙紀……」
う、うそ……。
そいつから無理やり君を奪うことはできないって……。
それは、彼のことだよね。
康太の……こと。
沙紀が気づいた時には、星川に再び強く抱きしめられていた。