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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第二章 ベートーベン ピアノソナタ 悲愴
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14 悲愴なソナタ  

康太視点になります。

 慶太の兄で沙紀の父親の親友でもある吉野相太も、実は去年希望退職によりかねてからの職を失い、出向先だったドイツで仲間と新しい会社を興し、貿易関係の仕事に従事している。

 その叔父からの誘いで慶太がドイツに行くと言うのだ。


「二人とも、何も心配しなくてもいいのよ」

「心配なんてしてないよ。へえ、ドイツか。それってヨーロッパの国でしょ? 僕たち外国に住めるの? 」


 初めは驚いていた翔太もすぐにいつもの調子を取り戻し、目を輝かせて質問する。


「そうよ。ドイツはね、とってもいい国よ。お母さんもね、昔音楽の勉強でドイツに留学してたから。言葉の方も何とかなるし、あなたたちも若いんだから、すぐに馴染めるはずよ」

「そっか、なら安心だね。僕、早くドイツに行きたいな。お父さん、出来るだけすぐに僕たちを呼んでよね。なんか楽しみになってきちゃった。ねえ、お兄ちゃん」

「あ、ああ……」


 ねえ、お兄ちゃん、と言われても康太は素直に、うん、そうだな、とは言えなかった。

 夏休みに入る前の自分なら、あるいは翔太のように前向きになれたかもしれない。

 でも、今は……。


 そんな夕食の夜から幾日か経ち、とうとう夏休みも終わりを告げる月末になっていた。

 二学期が始まる前日に学校と約束を取り付けた両親は康太を伴って松桜学院を訪れ、転校の旨を告げた。

 最初は渋っていた学校側も、父親の仕事事情を理解し条件付きで転校の承諾をした。

 外部の高校に優秀な生徒を取られるというのは、私学存続の死活問題にもかかわるらしいが、過去にも家庭の事情や成績不振、あるいは学校に馴染めないなどの諸事情で中学卒業後退学する生徒も多少は存在すると言う。

 だが両親の意思も固く、康太自身も強く退学を望んでいることから、これ以上引き止めるのも無理であると察した学校側の譲歩で、認められたのだ。


「では三月、中等部修了式をもって本学より除籍ということにしますので、それまでクラスメイト及び他者へ公言はしないという約束でお願いします」


 校長の申し渡しを受け、ついに康太は北高受験への切符を手にすることが出来たのだ。

 けれど、その先のドイツ移住計画が康太に重くのしかかる。

 彼の気持ちは晴れないままだった。

 進学問題もなんとか決着がつき、さてどうしたものかと今後の自分の身の振りについて、いろいろ考えを巡らせていた康太であった……が。

 校長に言われた誰にもばれないように、という約束はなんとかクリア出来るとしても、受験勉強は一応きちんとやっておかなければならない。

 しかし周りの受験生のように塾に通うことは出来ない。受験がばれてしまうからだ。

 かと言って、家庭教師を頼む費用は、とてもじゃないが今の康太の家では計上できそうもない。

 康太は腕を組み、瞑想をするように静かに対策を練る。

 そして急に何かがひらめいたかのようにすくっと立ち上がると、窓際に立てかけてある虫取り網を手に取った。

 それであの日以来封印していた沙紀の部屋の窓をコンコンと軽くたたいてみた。


「……」


 いないのだろうか? 何も返事がない。

 がっかりして、閉まったままの窓を残念そうに見る。

 今までだっていつもそこに彼女がいるとは限らなかったが、今日ほど落胆した日はない。

 あきらめかけたその時、沙紀の家からピアノの音色が響いてきた。

 あれは間違いなく沙紀の弾くピアノの音だ。

 タッチはもちろんのこと、抑揚の付け方や付点の弾み具合など、どこを切り取っても沙紀の演奏以外の何物でもない。

 陸上部の活動も夏休みを最後に引退して帰宅時間が早まった分、ピアノに向かう時間が出来たのかもしれない。

 康太はしばらくの間、沙紀の弾くピアノに耳を傾けていたが、どういうわけか繰り返されるのは、ベートーベンのピアノソナタの第一楽章ばかり。その名も悲愴。

 タイトルどおり重くどっしりとした始まりの部分から次第に左手低音部が連打で鳴り響く。

 すると急にピアノの音が止み、階段を駆け上がる足音がトントンと響いてきた。

 窓の向こう側に人の気配がする。きっと沙紀が部屋に戻ってきたのだ。

 康太はおそるおそるもう一度窓をたたいてみた。


「何? 」


 合図が終わらないうちに、ものすごい勢いで窓が開く。

 そこには明らかに怒りの形相をした沙紀が康太を睨んでいた。

 これはマズイ状況なのかもしれない。目の前の同級生はなにやらご機嫌斜めのようだ。

 康太はやっぱり今日はやめといた方がよかったかな……と思い、出直そうと窓に手をかけると。

 笑顔なんかとっくの昔にどこかに置き忘れてきたとでもいうように、顔を真っ赤にして頬を膨らませ、まさしく鬼になった沙紀が目の前に君臨する。


「いや……その……。また今度にするよ。ごめん……」


 とにかく今日はこれ以上彼女を刺激せず、この場をとっとと立ち去った方が賢明とばかりに康太は沙紀の前から姿を消そうとしたのだが。


「またいやがらせ? この間はよくも無視してくれたわね! 」

「あ、あれは……」

「フン! あの後何か一言くらいあるかと思ってたのに全く音沙汰なしなんだから……。あたし、あんたに何か気に障るようなことでも言った? 」


 ようやく沙紀の剣幕の理由に気付いた康太は、まさかあの時、濡れた髪の沙紀があまりにも色っぽくて、目のやり場に困ったからだなんて言えるわけがないと心の中で弁明を繰り返す。

 あの時の状況をどう説明したらいいかと考えた結果、康太の口をついて出た言葉はますます沙紀の気持ちを逆なでしてしまうかもしれない。


「それは……。あ、あの時、沙紀が、あまりにも、その……。大人っぽく見えたんで、ちょっとびっくりしただけだよ。ごめん……」


 自分の発した言葉にもう一度びっくりした康太は、それ以上何も言えなくなってしまった。


「大人っぽいって? 何、それ」

「あ、いや、だから、その」


 もう泥沼だ。なら、はっきり言ってしまえ。


「髪が濡れてる沙紀を見て。ドキドキしてしまった。ホントにごめん」


 後は野となれ山となれ、だ。


「そ、そうだったの? あたし……ただ少し髪が伸びただけだよ。だから、なかなか乾かなくて。それ以外は別に何も変わってないし。それに、大人っぽいとか、そんなこと、まだ誰にも言われたことないし……」


 沙紀にまでこの気持ちが伝染してしまったのだろうか。

 さっきの鬼の形相はなりをひそめ、恥ずかし気な眼差しをまとったままうつむいてしまった。


「で……。今日は何の用? 」


 沙紀はまだ下をむいたまま小さい声でボソボソと康太に訊く。


「ああ……。そうだったな。え、えっと……。今からちょっと外に出ないか? 話があるんだ。ポチの散歩とか何でもいいから理由をつけて出て来て欲しい。いつもの河原の土手で待ってるから……。そうだ、俺と時差をつけて家を出ろよ。先に俺が出るからな。おばちゃんにはくれぐれも悟られないように。じゃあ、後で……」


 なるべく小さな声で沙紀にだけ聞こえるようにそう言った。

 犬の散歩コースの途中にある河原でなら心置きなくあの作戦を実行できそうな気がしていたからだ。

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