157 確執
「ははは。何を遠慮してるんだ。全部俺が言い出したことだ。君が知りたいなら何でも話すつもりだよ。今まで胸にしまい込んできたものを全部さらけ出して、素っ裸になって向こうでやり直すつもりだから」
「いいのかな、こんな事訊いて……。じゃあ聞くね。どうして水田先輩は嘘をついてまで、部長を振ってしまったの? 」
沙紀は、星川の腕をそっと肩からはずし、身体を彼の方に向けて目を見ながら訊ねた。
「戦後、木下家。つまりうちの母親の本家が、隣の水田家と折り合いが悪くてね。もちろん俺はそんな昔のことはよくわからないが、杏子のおじいさんが生きていた時、俺はひとことたりとも声をかけてもらった記憶がないんだ」
「え……」
「俺の子供心はすでにズタズタだったよ。大きな身体で、鋭い目つきをしたおじいさんだった。それはそれは怖かったさ。俺が家の前を走り抜けただけで、ガラガラと窓を開けて、ギロっとにらまれるんだ。杏子と一緒にいる所を見られようものなら、あいつがおじいさんにひどく叱られる。あんな奴と遊ぶな、口もきくな、ってそれはそれは理不尽な命令をされて。俺の名前を呼ぶことすら禁止されていたみたいだ」
「そ、そんな……」
「あのあたり、幼稚園の敷地も含めて、戦前はすべて水田一族の土地だった。事業に失敗してしまった水田家は土地を切り売りして、戦後に木下家がそこを買い取り入り込んでから、目の仇にされていたみたいで。だから、土地を奪った木下家は敵で、そこの子孫である俺も、おじいさんから見れば許し難い敵というわけだ。そうやって言い聞かされて育った杏子がそうやすやすと俺を受け入れるはずがないんだ。おじいさんが生きていた頃は尚更、杏子も俺と恋人同士になるなんてことは、避けたかったんだと思う。でも心は縛ることは出来ない。おじいさんが病に伏せって入退院を繰り返すようになった頃、杏子の家に堂々と出入り出来るようになって、いつしか彼女を愛してしまったんだ。うちの母と杏子の母親も子どもの頃に一緒に遊んではいけないと言われて育ったみたいだけれど、今は誰もそんなことがあったなんて信じないくらい仲がいいし、お互いに信頼し合っている。その証拠に、あの幼稚園は将来、杏子に継がせるとまで母は言ってるくらいだから」
星川は沙紀の目を見て、一言一言噛み締めるようにそう言った。
でも沙紀には、本当のところ、話の意味がよくわからなかったのだ。
もちろん、日本語としての言葉の意味はよくわかる。
そうではなく、戦後だとか戦前だとか、親ですらまだ生まれていない頃の話をされても、どうもピンとこない。
このご時世に、そんなことが理由になって恋愛すら自由にできないなんてありえないと声を大にして叫びたいというのが沙紀の言い分だった。
「いつの時代の話だって思っただろ? でも杏子の気持ちもわからなくもないんだ。あいつが母親に育てられているのは知ってるだろ? 」
「うん……」
沙紀は、水田が自分から親が離婚していると話してくれたのを思い出していた。
お父さんは別の家庭を持っているとも言っていた。
「それで、母親と一緒に杏子が水田家に戻って来て、昔かたぎのおじいさんと、離婚をして肩身の狭い母親との板ばさみになって、大人の顔色を見ながら育った杏子に……何も罪はないんだ。だから、杏子がそこまでして俺との関係を拒むのなら、それでもいいと思った。あいつがそう望むのならそうしようと。それ以降、俺はあいつを忘れようと必死になって勉強して、音楽にのめり込んで……。そしてようやく杏子との一番いい距離を見つけて、気持ちにもゆとりが生まれてきた時、相崎と出会ったんだ。入学式の時の君の声に一目ぼれをしたのかもしれない。そして、歌声を聞くうちに、好きになってしまった」
星川の指が沙紀の頬をすっと撫でる。
はっと意識を取り戻した沙紀は、その指をかわすように顔を背け、また横並びになるように座り方を変えた。
今が夜でなくてよかったと、ほっと胸を撫で下ろす。
暗闇の中なら、あのどこか見覚えのあるなつかしい瞳に吸い込まれて、そのまま星川の胸にすがっていたかもしれない。
康太との気持ちがすれ違ってしまった今、この目の前にいる尊敬する人にすべてを委ねられたら、どんなに楽になるだろうと思ってしまう。
けれど、それは出来なかった。
この人は康太ではない。
「そうやって、君も俺の指の間からすり抜けていくんだ……な……」
「そ、そんな。あたしはただ……」
「吉野のことしか考えられないって? でもあいつ、夕べどこにいたか知ってるか? 」
星川はいったい何を言いたいのだろう。
夕べ康太はバイト先のレストランにいた。
それで、その後……家に帰ったはずだ。多分。
いや、でも。
美ひろが康太にすがっていた。
母親にさんざん打ちのめされ、憔悴しきった美ひろを前にして、康太が手を差し伸べなかったという事実はどこにもない。
というか、あのまま美ひろを放っておくだけの強い意志が康太にあるはずもなく。
昔好きだった女性に頼られて拒否できる人などいないだろう。
沙紀は急にありえないほどの不安感に襲われる。
あれ以来、家に外泊の連絡を入れた時以外は、携帯の電源を切ったままにしている。
康太があの後どうしたのかなんて、何も知らない。
沙紀は身体が震え出すのを止められず、両手を身体の前で交差させて、自分で自分を抱きしめる。
そして、ゆっくりと星川の方に向き直った。