156 失恋の理由
沙紀はこの瞬間まで、星川の失恋の相手は水田先輩ではないと思っていた。
星川が中学二年生だったとすれば、相手の女性は高校生、もしくは大学生だと想像を膨らませたりもしたが、水田がそれは違うと教えてくれた。
だとすれば、彼女は中学の同級生で、音楽の話を分かち合える大人っぽい人ではないかと沙紀の心の中でその相手像が固まりつつあった。
星川がいくら頭脳明晰でしっかりした少年であったとしても、ついにその大人びた女性に振り向いてもらえることはなく、初恋の思い出として大切に胸に秘めている、とそう信じて疑わなかったのだ。
なのに……。星川は失恋の相手は水田杏子だとさらりと言ってのけた。
あっそう、などと一言で済ませるわけにはいかない。
これはとんでもないことになった。
水田が星川を好きなのは間違いない。
星川の話をする時も、篤也と甘やかに彼の名を呼ぶ時も、沙紀の耳には、愛しい人への想いが溢れているようにしか聞こえないのだ。
彼女は、とても幸せそうな表情で、星川のことをあれこれ語る。
なぜ水田は想い人であるはずの星川の気持ちを跳ね除けたのだろう。
当時は若く幼すぎて、まだそこまで心が育っていなかったのかもしれない。
中一と言えば、沙紀はまだ世の中のことは何も知らないまま、平和に生きていたように思う。
人を好きになることも知らず、男の人に愛されることももちろん知らず、親の庇護の元、のうのうと暮らしていたあの頃だ。
でも沙紀は、以前から気になっていたことがあるのだ。
それは水田がふともらしたあの言葉だった。
「私と篤也は特別な関係にはなり得ない。そう決められてるの。昔から……」と。
その時はなぜそんな難しいことを言うのだろうと不思議に思ったのだが、水田が星川の告白を受け入れなかった理由がこの言葉に表れているのだとすると、彼女だけが知りうる、いや、星川も知っているかもしれない何か根の深いものが、二人の間にあるのではないかと推測できる。
それさえ何であるのかわかれば、今この場で星川の横にいるのは沙紀ではなく、水田に取って代わる日もそう遠くはないような気がするのだが……。
そして、木下教授が星川の実の父親でないというのが真実だとすれば、この才能あふれる凛とした横顔の裏に、どれだけの悲しみを隠しているのだろう。
そしてその彼の苦しみを癒せるのは、沙紀ではなく、やはり水田しかいないと思う。
「で、杏子が俺を振った理由は何だったと思う? 」
ベンチの背に置いてあった星川の腕が、いつの間にか沙紀の肩を抱いていた。
鼻筋の通った、まどかが言うところの厭味なほど完璧に整った顔立ちが、沙紀の顔の間近に迫る。
星川に恋をしているわけでもないのに、胸の鼓動が激しさを増す。
脳が完全に誤作動を起こしている。
「何だろう……」
振られた理由をあれこれ考えてみる。
で、思い当たる答えが二つ見つかった。
一つ目は、当時はまだ星川のことが好きという意識が薄く、他の人に恋心を抱いていたため、断った。
二つ目は、あるいは、彼のことが好きだったけど、自分よりもっとふさわしい人がいると思い、謙虚な性格が邪魔をして前に踏み出せなかった。
水田ならば、そんな風に相手を思いやる気持ちが勝ってしまい、自分の恋心すら封印してしまいかねない。
その間にも、肩にかかる星川の腕の重みが、沙紀の心にずしりとのしかかる。
「他に好きな人がいる、だから俺とは付き合えないって言われた……」
やはりそうだったのだ。
別の人に心が傾いていたのなら、それは仕方がない。
「でもそれは嘘だとすぐにわかった。うぬぼれでもなんでもないんだ。そんなことくらいずっと一緒にいればわかる。どう? 相崎はそう思わないか? 」
「あ……。そっか、そうだよね。そういうのって、不思議と伝わってくるよね……」
沙紀も康太との関係の中で、星川の言っているような感覚を味わたことがある。
心がつながり合った時、それは言葉では言い表せないが、何か不思議なものが心に響いてくるのだ。
この人も自分と同じ事を考えている、とか、この人は自分に好意を抱いてくれているんだなあ、と心で感じてしまうのだ。
「告白した数日前に、突然思いが溢れてしまった時があったんだ。気づいたら、どちらともなく抱き合って、キスしていた。年齢的にはまだまだ幼い二人だったけど、親の離婚や、複雑な家庭環境に身を置いていた俺たちの心は、いつの間にか今と変わらないくらいに大人になってしまっていたんだ。少しでも傷つかないように、子どもでいられる期間を自分自身で切り捨てていたんだと思う。杏子のことを心から愛していたからこそ、あいつが嘘をついてまで拒絶しなければならない理由が何であるかってことくらい、うすうす気付いてしまった」
「えっ? お互いに好き同士なのに……。どうして水田先輩は部長の告白を受け入れなかったの? ねえ、どうして……」
と聞きかけて、沙紀はおもわず自分の口を両手で塞いだ。
これではあまりにも興味本位な態度が丸出しではないかと、恥ずかしくなったのだ。