155 ノスタルジー
ここを出よう……。
そう言われて、手を繋がれたまま、沙紀は星川について行った。
幼稚園の裏通用門を出て、夕べ水田の家に行った時にタクシーが入り込んだ路地を歩いて行く。
真っ直ぐ行けばそのまま水田家に着くのだが、幼稚園の敷地の境界を示す生垣に沿って、途中で左に曲がる。
沙紀にはわかった。
その先に見える建物が星川の家であると。
木下という古風な表札のかかった門をくぐり、庭の南面に停めてある黒いスポーツカーの前に立ち止まる。
「なあ、相崎。今日一日、俺に付き合ってくれないか。向こうに渡ったら、多分、ほとんど日本には戻らないと思う。いや、帰国してもここには戻らない。東京とニューヨークを行き来することになる。だから、これで君と会うのも最後になると思う……。嫌なら今ここで、はっきりとそう言ってくれ。無理強いをするつもりはない」
どうしてだろう。
星川のイメージがどんどん沙紀の心の中で書き換えられていくのだ。
冷ややかで誰も寄せ付けないような厳しい目線の星川は、もうすでにそこにいなかった。
どこか寂しそうで、その目はどこにも行かないでくれと言っているようにも見える。
沙紀はこの瞳をどこかで見たことがあるような気がしていた。
そう……。いつも星川に会うたびに思っていたこと。
今はっきりと思い出したのだ。
康太の目だ。
以前星川に家まで送ってもらった時、家の前で待っていた康太に部屋のベッドまで抱きかかえられて運んでもらったことがあった。
その時の康太の目と同じなのだ。
そして夕べ、店の外で美ひろと共に鉢合わせした時。
その時も康太は同じ目をしていた。
なんの繋がりもない二人のはずなのに、全く同じ目をして沙紀に訴えかけてくるのだ。
沙紀の胸は締め付けられるように、せつなさで溢れんばかりになる。
そんな目をしてたたずんでいる人を、ここに残して立ち去るわけにはいかない。
沙紀は出来る限りの笑みを浮かべて、いいよ……と初めて敬語を使わずに返事をした。
沙紀を乗せた車は大通りに出ると、なつかしい高校の校門前を通り過ぎる。
ポプラが青々とした並木を作り、その下を運動部の生徒達が声を出しながらランニングをしている。
「北高が見下ろせる高台広場があるだろ? 音楽部でも発声練習のため何度か行ったはずだ」
星川が突然そんなことを言い出す。
もちろん、高台広場は沙紀も知っている。
公園もあって、河原で開催される花火大会の絶好の見学スポットになる場所でも有名なところだ。
そこがどうしたというのだろう。
沙紀は首を傾げながら星川の方を見た。
「あそこは俺にとって、この町で一番思い出に残る場所なんだ。行ってみてもいい? 」
別に嫌という理由も見つからない沙紀は、うんと頷いて、黙って星川に身をゆだねた。
公園の管理棟横にある駐車場に車を置き、見晴らしのいい広場に歩いて向かう。
そこは昔と変わりなく、いくつかのベンチとブランコが並んでいた。
塗りたてなのだろう。
ペンキがくっきりと鮮やかな色を映し出していて、どこかアンバランスな感じがなつかしさをそそる。
真夏の、それも日中にここに来る人は誰もいないのだろう。
管理棟すら窓にカーテンがかかり、人の気配は全くない。
大きなケヤキの木の下にベンチを見つけ、沙紀は星川の横に並んで腰掛けた。
じりじりと照りつける太陽も木陰では気にならない。
背後の山の方から吹き抜ける風で、沙紀のチュニックの裾がふわりと揺れた。
「さっきはあんな話をして悪かった。君に言うつもりはなかったんだ。でも、自分でも歯止めが効かなくなって、気付いたら全部言ってしまった後だった。関係のない相崎にまで不快な気持ちにさせてしまって。少し後悔してる」
右手を沙紀の後ろのベンチの背もたれに掛けて足を組み、高校のグラウンドを見下ろしながら星川が言った。
沙紀は返事に迷った。
うんと言えば不快な気持ちになったことを肯定してしまうし、そうじゃないとも言い切れない。
膝の上に置いた手を握り締め、星川の言葉を待った。
「なんでここが俺の思い出の場所か、相崎にわかる? 」
沙紀が返事に困っているのを察したのか、空気を変えるように、明るい声でやや自嘲気味に星川が尋ねてきた。
「わからない。でも、部長の家から近いし。そうだ、子どもの頃、よくここで遊んだとか。アメリカに行く前に、思い出の場所を見てみたかった。そうだよね? 」
沙紀は自分の発想に自信があった。
映画のワンシーンによくあるではないか。
その地を離れる前に想い出の場所を訪れて、回顧にひたるのだ。
「まあ、それもあるが。……ここはね、失恋の場所なんだ。大失恋だった。それは見事にね」
またもや何を言い出すのかと思えば。
でもその声に、さっきのような重たさはなかった。
「中二の時だった。少女マンガによくあるだろ? 勇気を奮い立たせてここに彼女を呼び出したんだ。自信はあった。絶対にオッケーの返事をもらえるって。彼女とは両想いだと信じて疑わなかった。でも……」
「でも? 」
沙紀は水田にこの話を聞いていた。だから話の流れに驚くことはなかった。
けれど……。
「あいつ、泣きながら言いやがった。ダメだと。なんでそんなこと言うの……と。杏子のやつ、その後一年間全く口を利いてくれなかった」
い、今なんて言った? きょうこって言ったよね?
杏子って、杏子先輩……だよね。
沙紀は星川の失恋の相手が水田本人だったと今初めて知ったのだ。
口をぽかんとあけたまま、横に座る星川の横顔をただ呆然とながめていた。