154 もう一つの真実
「星川部長……。帰って来ていたのですね」
水田の話だと、夏の間はずっと東京に行っていると聞いていた。
少なくとも、昨夜、沙紀が水田家を訪問した時は不在だったようだ。
けれど、朝食のメニューから察するに、いつ星川が帰って来てもいいように、準備をしていたと言うことだろう。
さっきの電話で星川が家にいること事態が驚きだったのに、まさか、ここまでやってくるとは……。
沙紀の方こそあまりの衝撃の対面に顔が引き攣ってくるのがわかる。
「何をそんなにびっくりした顔してるんだ? 俺だってたまにはこっちに帰ってくるさ。それはそうと、前にもらったハンカチ、大切に使わせてもらっているよ」
「あっ、いえ、ど、どーも」
あのハンカチを渡すことでもう部長とは貸し借りゼロの関係になり、一区切りつけたつもりになっていた沙紀にしてみれば、大切に使っているなどと言われると、心なしか良心がちくりと痛み、歯切れが悪くなってしまう。
ちょうどその時水田が戻ってきた。
これで星川と二人っきりの空間から抜け出せる……とほっとしたのも束の間。
水田が申し訳なさそうに沙紀ににじり寄る。
「ごめんなさい、相崎さん。私この後、園内のピアノ全部の調整に付き合わないといけないの。それぞれの保育室の先生方の希望をまとめて書いたものを渡しているのだけど、立ち会ってくれと言われて。相崎さんに頼む仕事ももうないし、どうしたら……」
そう言いながら、明らかに水田の視線は星川に向けられている。
沙紀のことをお願い……と言っている目で。
それを察した沙紀は最悪の状況を避けるために作り笑いを浮かべて、突然思い出したとでも言うように早口でまくしたてる。
「あ、あのう、あたし、これで失礼します。ちょっと行きたいところがあるんです。水田先輩いろいろとありがとうございました。本当に助かりました」
「まあ。それホント? 相崎さんったらなんか無理してない? 私は不在だけど、よかったら家で待っててくれてもいいのよ。お昼には一度帰宅するから。篤也、お願い。うちに入れてあげて」
「え? そんな、とんでもない。いいんです。あたし、今日はこれで失礼します」
「本当にいいの? 早く彼と仲直りして、元気を出してね。うちにはいつ来てくれてもいいのよ。話を聞いてあげることくらいしか出来ないけれど……。それじゃあ、気をつけて。私も仕事に戻るわね」
そう言って、水田は忙しそうにそこから走り去っていった。
沙紀とて、いつまでもここでもたもたしていられない。
星川に軽く会釈して、失礼しますと口の中でもごもご言って立ち去ろうとしたのだが。
「待て。相崎」
星川のしなやかな指に腕をつかまれる。
決して乱暴なつかみ方ではなかったが突然の行為に沙紀の身体がピクンとはねる。
「あいつとけんかでもしたのか? 」
星川の射るような視線が痛い。
「は、はい。あっ、いや、なんでもありません。もう大丈夫ですから……」
沙紀はここで星川に弱みを見せてはいけないと思った。
これ以上借りを作ってはいけないのだ。絶対に。
「それで、杏子のところに泊まってたのか? ……なるほどね。杏子は君にとっての駆け込み寺ってわけか」
星川は何かを思い浮かべるようにして視線を泳がせた後、ふっとため息をついて、もう一度沙紀をじっと見た。
「夕べ、バイト先の店長から電話をもらってね。あっ、バイトと言ってももう辞めたんだが。昔、君を連れて行ったことがあるだろ? ……あそこのレストラン」
沙紀の心臓が俄かに暴れ始める。
そうだった。康太は星川の後釜として新しいバイト先に配属されたのだ。
ということは、もしかして昨日のゴタゴタをすでに知っているののだろうか。
沙紀は星川の言葉にこくんと小さく頷いた。
「青山って言ったっけ。彼女とはほんの数回しか一緒に仕事をしたことないんだが。あそこの母親が、また怒鳴り込んで来たんだってな? そして吉野が仲裁に入ったが、娘がこんなことになったのは吉野のせいだと言ってキレた……。そのことと関係あるんだろ? 」
沙紀はおもいっきり目を見開いたまま、肯定も否定も出来ずに、ただ星川の言っていることを機械的に聞くことしか出来ない。
「君の顔にそう書いてあるさ。まあ俺としては、いっぱいもめてくれて、吉野が相崎と不仲になってくれたほうがありがたいんだが」
「そ、そんな。あんまりです」
沙紀はやっとそれだけ言えた。
それが星川の得意のジョークだとはわかっていても、弱みに付け込まれたようで不愉快になる。
「ははは。俺はそこまで落ちぶれちゃいないよ。わざと彼を陥れたりはしない。だから安心して……。ただ……」
星川は沙紀の腕をつかんでいた手の力を緩めるとそのまま下にすべらせ、今度は彼女の指に彼の指を絡ませる。
驚いた沙紀はその手を振り払おうとするが、しっかりと握られていて逃げられない。
「ごめん。しばらくこのままで……。頼む」
向かい合った形で手を握られている。
抱きしめられているわけでもなく、本当にそれだけなのだけれど、どこか切ない気持ちが沙紀の指に伝わってくるのだ。
だめだ。星川の行動に流されてはいけない。
そうとはわかっていても、無理やりその手を振りほどくことはできなかった。
「この夏の終わりに、アメリカに渡ると決めたんだ。資金もなんとか貯めることが出来たし」
「えっ? 大学院は……どうするんですか? 」
沙紀は星川のことなどどうでもいいはずなのに、つい聞き返してしまう。
その目があまりにも哀しそうに見えるからだろうか。
「辞めるよ。この先、何年大学院に籍を置いていても、百合の葉では俺のやりたいことは出来ない。向こうの受け入れも整ったし、今がその時だと思うんだ」
「園長先生は、なんておっしゃってるんですか? 」
「おふくろか? まだ言ってないよ。でも反対されようがどうしようが、もう決めたことだから」
「木下教授は? 先生はなんて? 」
言ってしまってから沙紀はしまったと思った。
星川は父親である木下教授と折り合いが悪かったのだ。
星川の顔がとたんに強張る。
「あの人には言った。夕べ言ったよ。──そうか、としか言わなかった」
「そ、そうなんだ……」
「……相崎。俺ね……。あの人の本当の子どもじゃないんだ」
その瞬間、星川の手がより一層強く、沙紀の手を握り締める。
沙紀は自分の耳を疑った。
たった今、とんでもないことを聞いたような気がしたからだ。
もう何が何だかさっぱりわからない。
こともあろうに幼稚園のロビーで。
それも片方の手を、まるで恋人同士のように握られながら。
こんな場所で唐突に話すような内容ではないだろうと、言いようのない焦りと不安に襲われるのだった。