153 朝ごはん
沙紀視点になります。
その後すっかり寝入ってしまった沙紀は、朝ごはんの用意が出来たわよ、という水田の声にドキッとして飛び起きるまで、不覚にも熟睡してしまったのだ。
泊まらせてもらった上に、寝坊をして、朝ごはんの用意までしてもらって……。
沙紀は仮にも先輩である水田にどんな顔をして朝の挨拶をすればいいのかと自己嫌悪に陥りながら、身を縮めてすごすごと起き出していった。
テーブルの上には、和食の朝ごはんがまるで旅館のそれのように整然と並べられていた。
炊き立ての雑穀ご飯に、玉子焼き、そしてワカメの味噌汁に焼き魚、小松菜の煮びたしと、どれもとてもおいしそうに盛り付けられている。
「こんな朝ごはんでごめんなさいね。相崎さんは、パンの方がよかったんじゃないかな? 」
「いえ、そんなことないです。家ではパンの事が多いけど、和食も大好きです。特にワカメのお味噌汁とか、玉子焼きとか」
「ならよかった。実はね、私も本当は、パンが好きなのよ。でもね、ほら。我が家にはもう一人気難しい人が出入りしてるでしょ? あいつがどうしても和食がいいって言うから、こんな感じで準備することが多いかな? 篤也の留学中や、東京に滞在中は思いっきり羽を伸ばして、パン三昧な日々を満喫してた。ふふふ」
「先輩、本当にすごいです。部長のために、朝ごはんまで用意しているんですね」
「やだ、そんな、篤也のためって。そんなことはないわ。どっちみち、私と母の朝ごはんの準備もするんだし、一人分くらい増えてもどうってことないの。それと、ああ見えてあの部長。毎回、おいしかったって、ボソッとつぶやくのよ。お米の一粒だって、それに焼き魚の皮だって何一つ残すこともないの。彼のマナーの良さに免じて、どうにか続いているって感じかな。たとえお世辞でもおいしいって言われると、悪い気はしないしね。そして、必ず後片づけをしてくれるのも、ポイントが高いかな」
沙紀は水田の気持ちがわかるような気がした。
料理はあまり得意ではないけれど、カレーや焼きそばを作って康太に食べてもらった時、彼の本当においしそうな笑顔と、うまいよ、の言葉にどれだけ励まされていることか。
そして、水田の作ってくれた朝ごはんは、本当においしかった。
お世辞でも何でもなく、すべてが完璧な仕上がりだった。
「先輩。本当においしかったです。部長が全部残さずに食べちゃう気持ちが、よーくわかりました」
「まあ、相崎さんったら。これくらいお安い御用よ。いつでも泊まって行ってね。そして、一緒に朝ごはん食べようね」
おいしいご飯と水田の笑顔に心が救われた沙紀だったが、次第に現実が頭をもたげ、昨夜の悩みが沙紀の脳内を占領し始める。
夏休み中とは言っても、幼稚園に当番制で出勤している水田は、この後すぐに家を出ると言う。
彼女の母親が山登り旅行に行っているため、誰もいなくなる水田家にこのまま居座るわけにもいかない沙紀は、水田と一緒にとりあえずここを出ることにした。
かといって、そのまま真っ直ぐ家に帰る気にもならず、残りの時間をどうやって過ごそうかとあれこれ思案する。
「相崎さんも来る? 幼稚園に」
そんな沙紀の心の中を見透かすように、水田は言った。
「へ? あ、あたしなんかがのこのこついて行ったら他の先生に怒られますよ。それに邪魔になるだけだし」
沙紀は思いがけない水田の誘いに怖気づいた。
「午前中は私しかいないし、提出していた実習記録を取りに来たってことにしておけば大丈夫。誰も怒ったりしないわ。子ども達は夏休み中だしね。よかったら、壁面製作や園庭の果樹や草花の水遣りなんかを手伝ってくれると助かるんだけど」
沙紀の返事を待たずして、水田に幼稚園の裏通用門のところまで背中を押すようにして強引に連れて来られた。
呆然として突っ立っている沙紀に、涼しいうちに水遣りお願いね、と大きな麦藁帽子を渡される。
沙紀はあれこれ思い悩むより、身体を動かした方がいいのかもしれないと思いなおし、てきぱきと動き回る水田にならって、園庭にホースを伸ばし始めた。
水遣りが終わると、水田の指示に従って、ロビーの大きな壁面に一学期に子ども達が作った製作物を掲示していく手伝いを始めた。
絵や工作などをバランスよく配置し、九月に新学期を向かえる園児達を温かく出迎えると言うわけだ。
理屈抜きに楽しい。
子ども達の作った作品もかわいらしいが、こうやって環境づくりを整えるのがこんなに面白いとは思ってもみなかったのだ。
沙紀は鼻歌交じりに画鋲やテープで作品を留めながら、いつの間にか康太との約束も、昨日の出来事もすべて忘れて作業に没頭していた。自分でも気付かないうちに……。
その時突然ロビーに、水田の携帯が鳴り響いた。
水田は携帯を耳にあて、少し驚いたような声を出す。
そしてその相手の名を呼ぶ声に、今度は沙紀が目を丸くした。
「……篤也、ごめん! 助かった。うん。うん。わかった。すぐ行く」
間違いない。今水田は篤也と言ったのだ。
それにすぐ行くって……。
沙紀は何度も目をぱちぱちさせて、水田を見た。
「職員室にずっと電話がかかっていたみたい。作業に熱中しすぎて気がつかなかったわ。今日はね、幼稚園中のピアノの調律の日なの。保育室十二部屋分のアップライトと、遊戯室のグランドピアノ。そして、多目的室のアップライトの十四台。いつもピアノのメンテナンスを請け負ってくれている佐藤楽器店の方が幼稚園に電話しても誰もいないって困った挙句、篤也の家に電話してきたんだって。ちょっと正門を開けてくるわね」
鍵を手にした水田が楽器店の人を招き入れるために正門に向かって走って行った。
それとほぼ同時に、誰かがロビーに入って来るのがわかった。
足音をこつこつと響かせて。
「やっぱり相崎か。まさか君がここにいるとは……。もう実習は終わったはずだろ? それとも……。俺に会いに来てくれた? 」
そこにはもう二度と会わないと決めたはずの星川が、沙紀に負けないくらいびっくりした顔をして立っていた。