151 叫び
星川篤也が兄?
理屈ではわかっていても、どこかまだ映画でも観ているような他人事のような気がしてならなかった。
母親は違うとはいえ、同じ父親をもつ者同士、この世で血を分けた兄弟がもう一人現れるなどと、誰が想像しただろう。
それもよりによって、あの星川だ。
康太はこの瞬間から、また新たな苦悩が湧き起こるのを感じ取っていた。
兄弟で同じ女性を好きになってしまったというこの運命のいたずらに、突如胸をかきむしりたくなるほどの苛立ちを覚える。
そして事もあろうに、その愛する女性に不信感を抱かせるような事態になってしまった今、一刻も早く誤解を解きたいと焦り始めていた。
でも……。
こんな気持ちのままで果たして沙紀と向き合っていけるのだろうかと不安が押し寄せる。
明日の旅行はどうすればいいのか。
つまりそれは、二人の関係がより一層親密な物になるという意味合いが含まれている記念すべき旅行になるはずだった。
康太は出来うる限り、沙紀を大切にして来たつもりだった。
けれどその裏には、常に、自分のような運命を背負った子どもがこの世に生まれ出ることへの恐怖のようなものがあったのも事実だ。
大学一年の時に木下教授と出会い、それがきっかけで康太が自分の出生に疑問を持ち始めたことに遡る。
そしてとうとうその糸を手繰り寄せることに成功し、謎の一端を知った今となっては、ますます、一時的な感情の高ぶりで彼女を抱いて、愛する人を翻弄させるようなことはあってはならないと思う。
そんな康太の苦悩が顔にでていたのだろうか。
木下が慈しむような目で康太を見て、目じりの深い皺にうっすらと涙を滲ませる。
「吉野君。こんな話をして、本当にすまなかったね」
「いえ……」
「だがこれが真実だと決まったわけではない。あくまでも私の憶測だ。そして、君の想像でしかない。真実は君のご両親のみぞ知るということだね。それに真実が必ずしも正義だとは言えない。それを選択する権利は残念ながら私にはないのだよ。でもね、もし君が本当に私の息子なら、こんなに嬉しいことはない。恋愛が成就しなかった相手とはいえ、彼女との間に君が存在してくれたことはこの上ない喜びだよ。あの頃は、夏子さんのすべてが愛おしくて、精一杯の愛情で彼女と接していたと思う。その流れの中で授かった命が君だと言うのなら、その命を産み育ててくれた君のご両親には感謝の気持ちしかない。そしてそんな君と引き合わせてくれたのがピアノだとすると、私はいったいどんな奇跡の運命に導かれていることか」
「先生……」
「さて……。この話は今夜だけということにしよう。もし夏子さんや君のお父さんから何か打診があったら、私は誠心誠意、すべてを真摯な気持ちで受け止めるつもりでいる。そうでない限り、君とはこれからもピアノ仲間ということで付き合ってもらいたいのだが。君はどうかな? 」
「……わかりました。そうします。それに……。僕の父親は、やはり、誰が何と言おうと、ドイツにいる吉野慶太だと思ってます。だからこれから先、どんなことがあってもあなたのことを父と呼ぶことはないと思います。……すみません」
「当然だ。私も息子は篤也だけだと思って……いるよ。そうだとも……」
木下はこらえきれなくなった涙を、ぽたぽたとテーブルの上に載せられた握りこぶしの上にこぼしていく。
そしてその手で慌てて涙を拭った。
もうしばらく店に残ると言った木下と別れを告げた康太は、店を出て車に乗った。
もう一度沙紀に連絡を取ろうと携帯を取り出すのだが、真夏だというのに指先が震えて操作ができない。
そのうち身体中がガクガクと震え出し、携帯を握っていることすら困難な状況になってきた。
どうしたというのだろう。
車の外の暗闇が塊になって、四方八方から押し寄せてくるような重苦しい空気に取り囲まれる。
康太は生まれて初めて感じる恐ろしいほどの孤独感に襲われていたのだ。
子供の頃から何も疑うことなく、父親の腕に安心して抱かれ、その背中を慕い、人生の目標にして生きてきたのだ。
それがすべて虚像だったと知った今、康太の心は頼っていた支えを無くし、ぐらぐらと揺れ動いている。
何かにつかまっていないと振り落とされそうな感覚にまとわりつかれる。
その時康太の脳裏に沙紀の小さい頃の顔が思い浮かんだ。
負けず嫌いで、男勝りで、康太より背が高くて力持ちで。
でも彼女の笑顔は底抜けに明るく、その軽やかな声はいつも康太の心にすとんと届いていていた。
当時、何をやっても沙紀に敵わなかった康太が唯一勝てたもの。
それはピアノだった。
ピアノに勝ったも負けたもないが、沙紀に弾いてとせがまれるたび、彼女が帰ってから死に物狂いで難曲を練習をした。
親や友達や先生に褒められるより、沙紀にすごいと言って貰えるのが嬉しくて、ピアノにのめりこんでいった日々の先に訪れたのは、恋だった。
レッスンのたびに自宅を訪れている沙紀にあれこれ話しかけられて嬉しいはずなのに、冷たくあしらってしまったこともあった。
優しくすればよかったと後悔した翌日には、中学校の誰かに告白されたとのうわさを母親から聞き、この世の終わりに打ちのめされた日もあった。
そして、夏休みに勉強をきっかけに始まった交換ノートが、恋心に新たな火を灯し、恋が実って今に至る。
そんな、かけがえのない沙紀に早く連絡を取りたいのに、電話すらかけられないのだ。
康太は車の天井を見上げた。
頭上のすぐそこに、今にもくっ付きそうなくらいに近い天井が目の前に迫る。
零れ落ちそうになるしょっぱい水を堰き止めるように、必死で上向きの角度を保った。
高校生の時、両親がドイツに行ってしまい、雅人と二人の生活になってどれだけ寂しくても泣かなかったのに、二十二歳になった今、どうして泣かなくてはならないのだろうか。
お母さん。お母さん……。
俺、どうすればいいんだ。
なんでお父さんの子どもじゃないんだ。
なんでなんだよ。教えてくれよ。何とか言ってくれよ。
おかあ……さん……。
康太は心の中で、何度も母親を呼び続けた。
母が恋しかった。
父も恋しかった。
そして、自分が自分でないような言いようのない疎外感に身も心も引き裂かれそうになるのだった。