13 爆弾宣言
康太視点になります。
四人そろって夕食を取ることは、最近ではとても珍しいことだった。
今年に入ってからはますます帰りの遅い慶太と康太が顔を合わすのは朝のわずかな時間だけだ。
七時に始まった夕食だったが、十分ほどでほぼ食べ終わった康太は進学の件について話を切り出すきっかけをつかもうと家族の様子を窺っていた。
慶太はいつになく疲れているようで、ビールを一口飲んではため息をひとつ、またひとつと何か考え事をしているようでもあった。
仕事が忙しいのだろうか。家族のためにずっと働き、休日もままならない様子に康太自身も胸を痛めていた。
普段ならば、私も一杯頂戴とグラスを差し出す夏子も、おかずを少しつまんだだけでご飯には手を付けず、箸が止まったままだ。
いつもと違う雰囲気をいち早く察した弟の翔太は、努めて明るくふるまって、学校で流行っているというギャグを必要以上にオーバーに披露し始める。
本当は弟と一緒になって笑いたいところだが、今日だけはだめだ。
この後切り出す話の内容を思い浮かべるだけで、笑顔になどなれるはずもなく。
結果、誰も反応を示さず、とうとう翔太まで黙り込んでしまった。
康太は自分がこれから発する言葉が、今以上に食卓の空気を悪くするだろうことを恐れつつも、もう後には引けない。
意を決したように慶太と夏子を交互に見つめた後、そっと箸を置き、ゆっくりと話し始めた。
「お父さん、お母さん。話があるんだ」
ここ数年、両親のことをそのように呼ぶことすら少なくなっていた康太だったが、今夜ばかりはそうもいかない。
「あら、康太。どうしたの? 何か困ってることでもあるの? 」
夏子の言葉に合せるように慶太もどうしたんだと訊ねてくる。
「あの、俺。松桜、辞めようと……思うん、だ」
最後の方は声が震えていた。康太はありったけの勇気をふりしぼって人生最大の賭けに出たのだ。
そして恐る恐る慶太と目を合わせたのだが……。
「聞いていたのか……? 」
それが慶太の返事だった。聞いていた? いったい何を? 康太は訝しげに首をかしげることしか出来ない。
松桜を辞めるだと? そんな勝手なこと、許さないぞ! と殴られんばかりに怒鳴られるだろうと覚悟を決めていた康太は、どこか腑に落ちないままどう返事をしようかと言葉に詰まっていた。
「康太、やっぱり知っていたのね……」
夏子までそんなことを言う。
「べ、別に……何も聞いてないし、知ってもいないけど。ただ俺は松桜を辞めて、北高を受け直したいと思ってて、それだけで……」
康太はありのまま、自分の思っていることを素直に伝えたつもりだった。
けれども慶太の口から出たのはまたもや予想もしない内容だった。
「そこまで言ってくれるのか……。でも本当に何も聞いてないのか? おまえのことだ。そうやってお父さんをかばってくれるんだろ? 」
康太はますます混乱してきた。慶太が何か深い事情を抱えているだろうことだけが見え隠れする。
「かばう? そういうんじゃないんだ。ただ俺のわがままで」
「康太、もういいんだよ。年内でお父さんが今の会社を辞めること……。おまえも理解してくれるんだな」
「え……。会社を辞める? そ、そうなんだ。そんなの本当に何も知らなかったし」
「お父さんは、康太を、あ、いやもちろん翔太もだ。おまえたちが産まれる時、責任を持って育てると、お母さんと約束したのに。おまえがまだ中学も卒業しないうちにこんなことになるなんて。本当に申し訳ないと思っている」
康太は今のこの状況が、さっきまで自分が思い悩んでいたことよりもはるかに深刻なのではないかと徐々に気付き始めていた。
「慶太さん。私はまだ康太には何も話してないの。でもこの子、最近ずっと思い悩んでいるような感じだったから。もしかして、もうすべて知ってしまったのかなと薄々感じてたわ。ねえ康太。いつからこのこと知ってたの? 」
夏子も康太が親に気を遣って、松桜を辞めると言い出したと思っているようだ。
父親が会社を辞めるということは、一家の収入が大幅に減少するということを意味する。
母親も働いてはいるがその収入は到底父のそれには及ばないのだろう。
即ち、収入の大幅減少は家計をも圧迫し、私学の学費は払えないという事に他ならない。
もし康太が自分から松桜を辞めると言い出さなくても、すでに松桜に在籍することは不可能だったというわけだ。
翔太が受験しないというのも、そこに原因があったのかもしれない。
「いつからって……。本当に今初めて聞いたんだ。何も知らなかった。ただ俺はどうしても北高でサッカーがやりたくて、受験したいと思っただけだよ。他に何も理由はないから……」
康太は自分に追い風である状況に感謝しながらも、慶太の爆弾発言はまだ中学生である彼に不安をもたらすのに充分だった。
会社を辞めるには何らかの原因があるはずだ。慶太の会社は外資系の大手で、その名を出せば子どもですらCMソングを歌えるくらい日本中に浸透している大きな会社だ。
その会社が倒産するというニュースはまだ目にしない。
ならば、父親自身の問題で会社を辞めるのだとしたら、それはそれで北高に行くことさえ叶わぬ夢と化してしまう。
借金を作ったとか、会社の金を使い込んだとか、あるいは若い同僚と不倫をしたとか。
そして結果、両親が離婚という最悪のパターンも考えられる。
これではまるでテレビドラマのような流れではないか。
「こうちゃん……。ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、親としても救われる……」
夏子がエプロンの裾で涙を拭いながら肩を震わせてる。
「いや、だから。俺はほんとうに何も知らないんだ! それよか、いったい何が原因で、会社を辞めるんだよ。あれだけ一生懸命仕事してたじゃないか。そんなお父さんを、俺は誇らしく思っていたのに」
「康太、ありがとう。本当にすまないな。辞める理由か? それはな、翔太にはまだ難しいかもしれないけど、康太なら理解できるだろう。トップが変わるんだよ。日本での業務縮小が本決まりになった。このままあの会社にいても未来はないんだ。そういうことだ。康太。お前のその気持ちが嬉しいよ。本当に申し訳ない。奨学金や授業料免除の申請も考えたが、康太だけではない。翔太も同じようにとなると、なかなか厳しいものがある。苦労をかけるが……どうか、公立受験、がんばってくれ」
慶太の不祥事が理由ではないとわかり少しはホッとしたのだが、その直後の慶太の発言に康太は意識が遠のきそうになる。
「それでな、康太。翔太。来春には、相太おじさんのいるドイツに行く予定だ。まずお父さんだけ向こうに行って、おじさんの仕事を手伝うことになっている。仕事が軌道にのれば、皆をドイツに呼び寄せるつもりだ。今までのような生活は当分無理かもしれないが、お前たちを不幸にすることだけは絶対に避けたいと思っている。お父さんを信じて待っていてくれるね……」
康太も隣に座っている翔太も、あまりにも衝撃的な父親の告白に、返す言葉が見つからない。
ドイツに皆を呼び寄せるという言葉が重くのしかかると同時に康太の心臓はドクドクと激しく鳴りはじめた。
その瞬間、康太の脳裏に映し出されたのは沙紀の顔だった。
ドイツに行くと、沙紀とは離れ離れになってしまう。交換日記も途絶えてしまう。
そして何より、窓を開ければそこにいた彼女に会えなくなってしまうのだ。
康太は、両手を膝の上で握り締め、溢れそうになる涙を必死に堪えていた。