146 すがりつくところ
「沙紀? なんでそんなところに……」
康太がまさかというような顔をしてすぐそばの植え込みの脇に立っている沙紀を見た。
康太にしがみついていた美ひろも涙を流しながら顔をあげ、はっとしたように沙紀に目をやる。
「康太。これ……」
沙紀は二人の前に歩み寄ると車のキーを康太に手渡す。
「さ、さきちゃん……。あっ、待って。沙紀ちゃん! 」
そして美ひろと目が合った瞬間、沙紀の足はひとりでに動いていた。
それもただならぬスピードで路地を掛け抜け、あっという間に大通りに出る。
後を追ってきた康太につかまりそうになった時、沙紀はすでにタクシーに上半身をもぐりこませているところだった。
「すぐに車を出してください! 」
沙紀がそう叫ぶや否やすぐにドアが閉まり、車が動き出すと、康太は観念したかのようにそこに立ち止まっていた。
まさかこんな時に自慢の俊足が功を奏すなんて……と沙紀は苦笑いを浮かべ、シートにゆっくりと身を沈ませた。
「お客さん、どこに行かれますか? 」
「あ……。あの、風の森幼稚園までお願いします」
沙紀は咄嗟に告げた行き先が風の森幼稚園だったことに自分でも驚いていた。
このまま真っ直ぐに家に帰ることも出来たし、まどかの家に駆け込むことも出来たはずなのに。
「お客さん、幼稚園のどのあたりに車をつけましょうか? 」
年配の乗務員に停車位置を訊ねられる。
「東の筋を奥に入って……下さい」
「わかりました」
三十分もかからないうちに目的地に着き、車を降りた沙紀は、一目散に水田家に向かって歩いて行った。
一瞬ためらったが、意を決してインターホンを鳴らす。
すると、はい、とよく知った声が家の中から響いた。
沙紀はとって付けたような笑顔を振りまきながら水田に突然の訪問を詫びる。
「本当にすみませんでした。ちょっと近くまで来たもので、なんか幼稚園がなつかしくなって、気がついたらここまで来てて。それでどうしても水田先輩に会いたくて……」
「私はいつでも大歓迎よ。でも……。本当に理由はそれだけ? どこか無理してない? さあ、入って。よかった、私が家にいて」
古い日本家屋である水田の家は、すっきりと片付いていて、無駄なものは何もなかった。
台所と呼ぶのがもっともしっくりくる部屋に案内され、勧められた椅子に腰かける。
あ、そうだ、おばあちゃんの家に似ているかも……と相崎医院の祖父母の家を思い出し、情景を重ねていた。
よく冷えた麦茶を沙紀の前に用意してくれた水田に、で、どうしたの? と優しく訊ねられる。
「い、いやだ、先輩ったら! 別に何もないですよ……」
その時、沙紀のカバンの中で携帯が着信音を奏でる。
電話だ。それが誰からであるのかもとっくにわかっている沙紀はごそごそとカバンの中に手を突っ込むと、電源をオフにした。
「出なくてもいいの? 電話。私の前だからって、遠慮しないでね」
「いいんです。気にしないで下さい。どうせ、たいした用事じゃないんです、あははは」
そう言って笑いながら必要以上に明るく振舞う沙紀に、とうとう水田は、いつになく声を荒げた。
「相崎さん! いい加減にしてよ。ちっとも嬉しそうじゃないのに、どうして無理して笑ってるの? 何か理由があるのでしょ? どうして突然、ここに来たの? 」
沙紀は初めて見る水田の怒った顔に、おもわず顔をゆがめる。
そして、先輩、と一言口にすると、そのままテーブルに突っ伏して、泣き崩れてしまった。
どれくらいそうしていたのだろうか。
水田が沙紀の背中をさすりながら、ずっとそばについていてくれたのだ。
ところどころ言葉に詰まりながらもさっき店であったことを全部彼女に話した沙紀は、少しだけ胸につかえていたものが楽になったような気がしていた。
「相崎さん、真実がどうなのかは私にもわからないけど、吉野君は、純粋に同級生の仲間を助けただけだと思うけれど。だって、相崎さんが小さい頃からずっと彼を見てきて好きになった人なんでしょ? そんな人がそう簡単にあなたを裏切るかしら? 」
「でも、あたしと同じように、ひろちゃんも彼とは小さい頃から仲良かったし、ひろちゃんは今でも彼のことが好きなのかもしれない。それに……。昔、彼もひろちゃんのことが好きだったんだと思う。ひろちゃんはすごくかわいかったし、女の子らしくて、彼もひろちゃんにだけはとても優しかったんです。あたしが転んでも、大丈夫か? の一言だけなのに、ひろちゃんが転んだり、困っていると、そばまで駆け寄って来て、いろいろ手助けをするんです。あたしのことを、不死身だとでも思ってたのかな? 本当にいつもそんな感じで……」
「ふふふ。小さい頃は誰だって思うように自由に生きているものよ。私ね、なんで相崎さんのことがこんなに気になるのか最近ようやくその理由がわかった気がするの。似てるのよ。私とあなたって。小さい頃のあなたって、ちょっとさばさばしてて、おてんばさんだったでしょ? それに正義感が強くて、喧嘩っ早かった。違う? 」
沙紀は目をぱちくりと見開き、そのとおりだとこくこくと小刻みに頷いた。
ということは、水田も沙紀のような子どもだったのだろうか。
今の彼女を見る限り、とても信じられないのだが。