145 近所の目
「私は騙されないわよ。美ひろ! この店でバイトするまでは、あなただって、あの会社の研究室で働けるのをあんなに喜んでいたじゃない。あそこなら一生安泰なのよ。給料だってどこよりもいい。将来の伴侶も一流大学を出た人がいっぱいいるのだから、素敵な出会いもあるだろうし。あなたのお父さんより出世するのは間違いないし、そんなエリートと結婚出来れば、今よりももっといい暮らしができる。それなのに、どうしてこの店なの? バイトだけならまだしも、卒業後も働きたいだなんて。それで将来は店を持ちたい? なんてことなの? 」
母親の怒声がエスカレートしていく。
「わたし、わたし。ずっとお母さんの言う通りに、いっぱい勉強もして、お行儀もよくして。お母さんに褒められたくて、何でも頑張ってきた。お母さんの言うように将来は素敵な人と結婚して、お母さんになって……って。でも、高校生になって、将来の夢が見えてきて。どうしても今の大学の栄養学科に行きたくて、初めてお母さんに逆らって、行きたい大学を押し通した。お母さんの悲しそうな顔を見て、わたしはなんて親不孝な娘だろうって後悔もした。でも、そんなわたしを、大学の友人や付き合っていた彼氏が励ましてくれて、自分の思った道を進めばいいと後押ししてくれて。わたしは間違っていないんだって、ちょっとだけ自信が持てたの。だから……」
「だから、何? あんな下品な友だちや彼氏なんて、私は認められない。今の大学に行かなければ、こんなみじめな生活はなかったのよ。私の言うことをきかないからこんなことになって」
「お母さん、お願い。わたしの友だちのことは悪く言わないで。下品なんかじゃない。みんな優しくて、一生懸命に生きてて……」
「そう。そこまで言うなら……。じゃあ、吉野君。あなたは、うちの美ひろのその素晴らしい友人の一人なのよね。ならば、うちの子の将来を奪った責任をちゃんと取って頂戴。どうせ二人して示し合わせてここで働いていたのでしょ? 昔、美ひろが吉野君のことを好きなのは知っていたわ。でもどうせ子どもの戯言だと思ってみて見ぬふりをしていたのよ。なのに、なのに。まさかこんな形で裏切られるなんて」
再び康太に話の矛先が向く。
沙紀は腰をかがめてより一層身を隠し、固唾を飲んで様子を見守っていた。
「おばさん、ちょっと待ってください。何度も言ってますけど、俺は、青山さんとは付き合ってなんかいませんよ。たまたまこの店で一緒になっただけです。バイト仲間として青山さんの肩を持つのはそんなにいけないことなんですか? 」
「へえ、そうなの? ならば、他にちゃんと彼女がいるとでもいうの? ねえ、吉野君、どうなの? 」
「そ、それは……」
康太の言葉がそこで途絶えた。
彼も沙紀と同じ気持ちなのだろう。
内密に付き合っている以上、堂々と沙紀のことを言えないのだ。
「お、お母さん。吉野君はちゃんと、彼女がいるのよ。お母さんもよく知ってる、さ……」
「青山、言うな。頼む……。あまり大っぴらにしたくないから」
でももう沙紀はどうでもよかった。
全てをバラしてくれたらいいと。
それで母に知れたとしても、康太がこのまま疑いをかけられるよりはましだと思ったのだ。
でも、康太はそうはしなかった。
あくまでも、沙紀との秘密を守り通そうとしている。
ならばここは自分が出て行って、康太の身の潔白を証明したほうがいいのかもしれない。
沙紀は胸に手をあて、呼吸を整える。
すると、今度は勝ち誇ったような笑みを浮かべた美ひろの母親が、再び康太に話し始める。
「ほらごらんなさい。いないものは言えないわよね。別の彼女なんていないのよ。美ひろ。ご近所の目って知ってる? ご親切にもいろいろ教えて下さる人がいらっしゃるの。あなたが吉野君の車で頻繁に出かけてるのを見たって人がいるのよね。それに……。夜に車の中で、よからぬことをしていたって……」
沙紀は全身から血の気が引いていくのを感じていた。
「私はね、あなたたちだってもう大人だし、とやかく言いたくはないの。でもね、親に黙って、こそこそと……。それもご近所の噂になってから私の耳に入るってどういうこと? 外も出歩けやしない。美ひろ、吉野君とちゃんと話し合って、きちんとしてちょうだい。吉野君も教師になるのなら、将来的には安泰ね。公務員だから出世はあまり期待できないけれど……。そこは大目に見るつもりよ。吉野君が責任取ってくれるのなら、美ひろの願いも聞き入れないこともないわね。じゃあ」
「お母さんっ! 」
美ひろが引き止めるのも聞かず、母親は乗ってきた車に乗り込むと、瞬く間に駐車場から出て行ってしまった。
とうとう沙紀は皆の前に出て行くタイミングすら与えられないまま、その場に立ちすくむことしか出来ない。
車の走り去った方向にぼんやりと視線を漂わせ、そして……。
今、美ひろの母親が言っていたことをゆっくりと繰り返して言葉の意味を考えていた。
康太がひろちゃんとこっそり会っていた、と……。
実習中、沙紀とほとんど会えなかった間にでも、美ひろと会っていたというのだろうか。
近所の人の目。
誰が言ったのかは知らないが、火のないところに煙は立たないとも言う。
康太は、今日まで美ひろと同じところで働いていることを隠していた。
やましいことはないと言っていたが、関係ない人の家庭の事情にまで手を差し伸べること事態、おかしいのではないか。
「吉野君……」
美ひろが思い余ったような声で康太の名を呼んだと同時に沙紀が振り返ると、康太にすがりついて泣いている美ひろがそこにいたのだった。