144 夏の夜の密談
康太が店の中に入ってからすでに三十分は経つ。
エンジンを切っている車内はたとえ夜であっても蒸し暑く不快だ。
幸い、さっき康太が言っていたような物騒なことも起こっている様子はないようだが、これ以上長引くのであれば、先に帰った方がいいのかもしれないと思い始めていた。
彼が沙紀にキーを預けたと言うことは、車で先に帰れということだ。
少しはペーパードライバーから進歩しているので、ここから家までの運転なら問題はないと思う。
けれど、いつも同乗しているとはいえ、他人の車だ。
沙紀は慣れない夜道を一人で運転して帰ることに積極的になれなかった。
ならば、車を置いてバスで先に帰ろうと思うのだが、そのためにはキーを康太に返す必要があることに気付く。
でもそうするには、店の中に入らなければならない。
その結果、中にいる美ひろの母親に顔を見られるようなことになれば、康太と付き合っていることが一瞬にしてバレてしまう。
そのことは、時間の問題で沙紀の母親の耳に入り、事態がますます混乱してしまうことは簡単に想像できる。
親同士は今でも、道端でばったり会えば立ち話をする仲なのだから。
明日から隠密に康太との旅行を楽しもうと企んでいる沙紀にとって、美ひろの母親に知られることだけは避けたかった。
せめて旅行から帰ってきた後であれば、ここまで悩むこともなかったのだが……。
どんどん時間が経っていく。なかなか話が終わりそうにない。
あまり遅くなると、明日の出発時刻にも差し障りが出てくるのではないかと心配になってきた。
いったい康太は何に手間取っているのだろう。
状況が全く把握できない沙紀は、次第に焦りが募ってゆく。
とうとう車を降りて、そっと店の戸口に近寄った。
時折食事を終えた客が中から出てくるが、駐車場に停められた車の台数を見る限り、もうそんなに客はいないようにも思える。
西側の植え込みの方に窓があるので、そちらに回って中を覗いてみることにした。
すると、店の奥の大きな観葉植物が並べてある向こう側のテーブルに、康太らしき人物の頭がちらちら見える。
そして背中を向けているのは、美ひろの母親だろうか……。
康太のそばに立っているのが店長のようだ。
店長の顔には見覚えがある。
以前、水田と星川にここに連れてこられた時の記憶を、おぼろげながらに思い出していた。
その時、康太の横に座っていた女性が立ち上がった。
美ひろだ。
それとほぼ同時に背中を向けていた女性も立ち上がる。
何か言い合いをしているようにも見えるが、座席が窓からかなり離れているので、口の動きすら読み取れない。
そして母親がバッグを握り締め、席を離れた。
その後を追うように残りの三人が動き出す。
沙紀が中の様子を窺っていた植え込みのすぐ横の戸が開き、中から今見ていたメンバーが順に出て来た。
沙紀は咄嗟に皆から死角になる位置に移動する。
でも、ほんの数メートルしか離れていないのだ。
バレてしまわないかと緊張がよぎるが、まだ誰も沙紀の存在に気付いていないようだった。
夜で助かった。昼間ならすぐに見つかってしまったかもしれない。
「お母さん。待って。こんなこと、お店の皆さんに迷惑よ。今夜帰ってから、ゆっくりと話し合えばそれで済んだことなのに……」
突如立ち止まった美ひろが、前にいる母親を呼び止め、そう言った。
「今さら何を言ってるの? あれほど何度も言ってるのに、無視し続けているのは美ひろ、あなたなんだから」
「そんな……。無視なんてしてない。わたしの話を聞いてくれないのはお母さんよ」
「ホント、強情な娘だこと。いつからそんなに生意気になったのかしら。やっぱり大学に入ってからよね」
「だから、お母さん。そんなこと、ここで話していても、ずっと同じ事の繰り返しになってしまう。お願いだから、家で続きを……」
「家で? それが出来るくらいなら、こんなところに来ないわよ。そうさせたのは、美ひろなんだから。それと、ここの非常識な人たち。せっかく決まった就職まで反故にするなんて、どうかしてるわよ」
「だからずっとお母さんには説明してるし。わたしの夢を実現するのは、このお店だって」
「ああ、本当に育て方を間違えてしまったわ。そもそも、あの大学に進学したのが間違いの第一歩。東京の一流の女子大に進学しなかった時点で気付くべきだった。あんな地元のさえない大学に行って、変な男にそそのかされて。挙句が、こんな世も末な小さな飲食店でずっと働きたいだなんて。美ひろにはがっかりだわ」
「お母さん、お願いだから、それ以上はもう……」
「で、どうしてこんな事になったのか、いろいろ調べさせてもらったら。ふふふ。そう言うわけだったのね。ねえ、吉野君? うちの娘をたぶらかせておいて、よくもまあ私の前に何度も姿を見せられるものだわね! 」
「お母さん。だからそれは違うって。吉野君は関係ないって何度も言ってるでしょ」
沙紀は急に話に登場してきた康太の名前にドキッとする。
それもたぶらかしたなどと聞き捨てならない発言に、思わず植え込みの陰から飛び出しそうになった。
美ひろの母親が言った言葉が俄かには信じられなかった。