143 嵐の予感
「このカート内の支払い済ませて、そのあと、店内で待っててくれないか。金の精算は後になるけど」
「お金のことは別にかまわないけど。あたしが払っておくからここは任せて」
「じゃあ、お願いする」
「ねえねえ、この後、一緒に食事して、家に帰るんだよね? 」
「あ、うん、そうだけど……。それが、ちょっと困った事になってしまって」
「え? どういうこと? 」
「今から、行かなきゃならないんだ」
「ど、どこに? 」
沙紀は康太の言っている事が理解できない。
「バイト先。ちょっとトラブルがあったみたいなんだ……。ここから店までは車を飛ばせば十分ほどで着く。遅くならないようにするから、ここで待ってて……」
「いや。それなら、あたしも一緒に行く。さっさと支払い済ませて早く行こうよ。ね? 」
沙紀はなぜかここに残りたくなかった。
自分がついて行っても何の役にも立たないのはわかっている。
でも、今ここで康太と離れたら、何か取り返しのつかないことが起こりそうな不吉な予感がしていたのだ。
「ああ……」
康太の返事は尚も冴えない。
何か沙紀に知られたくないことでもあるのだろうか。
でも沙紀はここで引き下がるわけにはいかなかった。
実は康太が、星川の後釜で入ったレストランのバイト先のことを、どこか煙に巻くようにしてはっきりと話したがらないところがあるのに前から気づいていたのだ。
沙紀に言えない何かがあるだろうことは薄々わかっている。
やはり星川に関することなのだろうか。
彼が康太の気に障ることを何か言ったのかもしれない。
それとも、全く別の理由?
沙紀はずっと抱いていたもやもやを晴らすいい機会だと、このチャンスをなんとしても手放したくなかったのだ。
それに明日は、待ちに待った旅行だ。
そのためにも心の中の違和感をなんとしても取り除いておく必要があった。
思い出に残る楽しい旅行にするためにも、不穏分子は今夜中に解決しておきたい。
康太は車の中で、終始無言だった。
音楽もかかっていない。
異様な静けさの中、時折り鳴り響くウインカーの音だけが、カチカチと空間を刻んでいた。
店の駐車場に車を止めるや否や、康太の口から思いがけない言葉が発せられたのだ。
「なあ、沙紀。実は……」
「なに? 」
「それが……。この店で、青山と一緒に働いていること……。今まで沙紀に言えなかった。ごめん」
「え? 青山って。もしかして、ひろちゃん? 」
「ああ、そうだ」
沙紀の思考が次第に錯乱してくる。
美ひろと同じ職場だったんだ……とおぼろげに理解するも、どうしてその事を今日まで黙っていたのだろう。
これまでに話す機会は何度もあったはずだ。
おい、沙紀、青山もバイト一緒なんだ、めっちゃ偶然だろ? と打ち明けてくれればそれで済む。
へえ、そんなこともあるんだ、じゃあ、ひろちゃんに連絡取ってみるね、と会話が弾み、そこには何のわだかまりも介さないはずだ。
それなのに、今まで頑なに口を割らなかったことに、何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
康太が、全く見知らぬ他人のように思える。
こんなにも近くに愛する人がいるのに、この寂しさをどう形容すればいいのだろう。
「そ、そうなんだ……。知らなかった。だって、康太はそんなこと、何も言ってくれなかったし……」
「本当に、ごめん。……言い出しにくかったんだ」
康太が苦しそうに言葉を発する。
「そっか、そうだったんだ。ひろちゃん、康太のことが、その、昔、好きだったもんね」
「そんなこともあった。でも、何もやましいことはない。青山に再び言い寄られているとか、その逆も絶対にない。これだけは言い切れる」
「そ、そりゃあ、当然だよ。康太はそんないい加減な人じゃないもの。でも内緒にしないで言って欲しかったな。さらっと言ってくれた方が、こんな気持ちにならなかったのに」
「悪かった……。なあ、沙紀、ここで待っててくれ。実は、青山のおふくろさんが来てるようなんだ。かなりの剣幕らしい。それで店長相手に、大変なことになってるって、さっき連絡もらったんだ。もしかしたら警察沙汰になるかもしれない」
「け、警察沙汰って……。いったい何があったの? 」
「話せば長くなるから、今は言えないけど。とにかく、青山と母親のトラブルが店にまで影響してるんだ。無関係な沙紀まで巻き込まれたら大変だろ? 雲行きが怪しくなったら先に帰ってくれ。キーは預けておくから」
「無関係って。そんなことないよ。あたしだって、ひろちゃんとは、その、昔から親しいんだし。あたしに出来ることはない? おばちゃんのことは……。ちょっと苦手なタイプだったけど、よく知ってるし、ひろちゃんの味方になってあげられるかも。だから」
「沙紀、ありがとう。でも、ここは仕事場だ。沙紀を巻き添えにすることは出来ないから。じゃあ、今言った通り、俺にかまわずいざとなったら先に帰るんだぞ。行ってくる」
そう言って、康太は店の中に消えていった。
沙紀は、以前美ひろの家の前に停まっていた康太の車を思い出し、今、彼から聞かされた内容が、それまで曖昧だったいろいろな状況の隙間にぴったりとはまりこんでいくのを感じていた。