142 高原へのいざない
実習が終わった後、ひと月もしないうちに教員採用試験があり、結果待ちの状態で沙紀は夏休みを迎えていた。
明日からは、初めての二人きりの旅行だ。
お互いのバイトの都合で二泊しかできないが、ペンションの予約もバッチリだし、あとは天気の心配だけしていればいい。
その天気も太平洋高気圧のがんばりのおかげで、晴れるのは間違いなさそうだ。
待ったかいがあった。
今回は何もかもうまくいきそうな予感がする。
実習が終わって電話で言い争いになった夜、沙紀は車の中で、彼への思いを再確認すると共に誤解も解け、いろいろな話をした。
まさか星川部長の後釜として康太が新しいバイト先に雇われていたなどとは想像だにしていなかった沙紀は、その偶然に驚きながらも、部長に送ってもらったことを康太に知られたのはそういう理由だったのかと納得もした。
人は思わぬところで繋がっているのだと改めて思い知らされる。
隠し事なんてそう簡単に出来るわけがないということがよくわかった。
沙紀が夕方に楽器店のアルバイトを終える頃、家庭教師のアルバイト先から康太が迎えに来てくれることになっている。
深夜まで開いている大型スーパーに、旅行に必要な物を買い足しに行く予定だ。
一旦家に帰ってから買い物に出かけるとなると、そのことをいちいち親に説明する必要が出てくる。
そのため、親にはバイトが長引いたと思わせておくためにも、直行するのが賢明な策と言えるだろう。
明日から家を空けることについては、アリバイは完璧だ。
一応名まえだけ連ねている大学のテニスサークルの親睦旅行に行くと言っているのだが……。
二十歳を過ぎた頃から外泊についてあまりうるさく根掘り葉掘り聞かれることもなくなったのは沙紀にとってはこの際ありがたいことだった。
予定通り楽器店の前で康太の車に乗り込んだ沙紀は、旅行を明日に控え、ますます気持ちの昂りを抑えることが出来なかった。
「康太。明日は何時に出発するの? 八時じゃ遅くない? 高原に着く前に、気になる道の駅とかにも寄りたいし。ねえねえ、もっと早く行こうよ」
もう気持ちは涼やかな風が吹き抜けるあこがれのあの高原へと飛んでいた。
「わかった。んじゃあ、七時な。まずこの車で沙紀を駅の裏通りまで乗せて降ろす」
「うん」
「そして、一旦俺は家に帰る」
「そうそう。それで雅人先生の」
「四駆に乗り換えて、駅の裏で沙紀を拾って再出発……とまあこんなところだが」
「それで問題無し! 」
沙紀のサークルの親睦旅行の期間中に被るように康太の車がいなくなるのは、いくらなんでもマズイ。
両親がそれに気づいた時に、康太と一緒に出掛けたことがバレるとも限らないからだ。
雅人先生に車を借りることができたのはラッキーだった。
「こんな小細工が沙紀のご両親に通用するんだろうか。いささか不安なんだけど」
「大丈夫だって。ホントに最近は何も疑ってないから。高校の時のほうが、マジ、ヤバかったし」
「それならいいけど。あとは雅人兄さんが、うまいこと沙紀のおふくろさんに口裏を合わせてくれるはずだから、それに期待するとして……」
「ねえねえ、雅人先生に足向けて寝られないね。あたし、お土産いっぱい買っちゃう。康太は帰ってから肩でももんであげて! 」
「それなら毎日やらされてるさ。指の筋力トレーニングになるとか言いやがって、所詮、弱みを握られてる俺は、雅人兄さんの体のいいパシリにすぎないんだよ」
「あははは! ホントそうだね。でもいつも助けてもらってるんだもの。それくらい我慢しなきゃ」
「おまえなあ……。他人事だと思ってのん気なものだよな。勝手に言ってろ。それもこれもみんな、おさきちゃんのためさ。まあ頑張るしかないよな」
実習中は、あれほど険悪な空気が漂っていたのに、採用試験が終わってからは自然といつものような関係にもどって、こうやって冗談も言い合えるようになった。
郊外にある大型スーパーは平日の夜のせいか、前に来た時よりも空いていて、ゆっくりと店内を見て回ることが出来た。
ジュースにおやつに……タープテント。
これは、高原のキャンプ場で過ごす時に日よけになるからと、康太が買おうと提案したものだ。
家族四人がゆったり過ごせる大きさのものだが、売り場においてある商品は目を疑うくらい小さくてコンパクトだった。
この縦長の小さな箱の中にポールやテント布が入っているなんてどう考えても信じられない。
値段もTシャツが買えるくらいのリーズナブルな価格設定だ。そして軽い。
沙紀は迷うことなく、康太の押す大きなカートにそれをポンと載せた。
昼間は風光明美な高原でこのタープテントの下で過ごし、夜はペンションのおしゃれな部屋でゆっくりと語り合い、身を寄せ合う。
そして……。
誰にも邪魔されることなく、彼に身を任せるのだ。
下着も新調した。
バイト代を張り込んで、人気ブランドの香水も買った。
康太と一緒に飲む朝のコーヒーはどんな幸せな味がするのだろうと、想像するだけでにんまりとほくそ笑んでしまう。
車で夜明かしをしたことはあるが、ちゃんとした宿泊付きの旅行は初めてなのだ。
沙紀はこの日をどれだけ心待ちにしてきたことか。
幾分にやにやしながら化粧品のコーナーで日焼け止めクリームを物色していた時だった。
康太がパンツのポケットの中から携帯を取り出した。
彼は商品で山盛りになったカートを沙紀に預けると、通路の端の方に行って、携帯を耳にあて話し始めた。
沙紀のいるところからは康太の話し声は聞こえないが、その顔つきからして、何か緊急事態が起こっているだろうことは想像できた。
「康太、どうしたの? 何か……あった? 」
携帯を元の場所に仕舞い込みながら、康太が沙紀のところに戻ってきた。
いつになく険しい表情を浮かび上がらせながら……。