141 すぐにでも会いたい
沙紀視点になります。
その頃沙紀は一駅手前でバスを降り、何か飲み物でも買おうとコンビニに来ていた。
ビタミンが添加してある栄養ドリンクと今日発売のお気に入りのファッション雑誌を手にレジに向かう。
買った物を大き目のカバンにしまって、家まで五百メートルほどの道のりを疲れた身体にムチ打ってとぼとぼと歩く。
寄り道をしなければ本来のバス停からはそのまま真っ直ぐ家の道に繋がるのだが、コンビニからだと二つ上の路地を回った方が近道になる。
そして、もうすぐ家というところまで来た時、見慣れた車が路上に停まっているのが沙紀の目に映った。
間違いない。康太の車だ。
でもどうして?
それに……。
そこは沙紀が小さい頃から仲が良かった友人の家の前だったのだ。
高校に入学してからは疎遠になっていたが、去年は中学の同窓会で顔を合せ、積もる話で盛り上がった。
沙紀は横を通りながら康太の車を見た後、明かりの漏れる美ひろの家に視線を移した。
窓がきっちりと閉められカーテンもかかっているため、中の様子は窺い知れない。
子どもの頃、何度も遊びに来たこの家の間取りも、まだこと細かに憶えている。
一階の庭に面しているところがリビングルームになっている。
その真上の出窓のあるところが美ひろの勉強部屋だったはずだ。
二階の電気はどこも消えている。
ということは一階に皆がいるのだろうか。
でも……。
沙紀は美ひろの家と康太の車がどうしても結びつかず、もう一度車のナンバープレートを確認してみた。
何度見てもそれは吉野家の車以外の何物でもない。
中のシートカバーも、フロントのミラーの角度も見慣れたそれだった。
そして、後部シートに丸めて投げられている黒っぽい布は、紛れもなく康太の上着だった。
沙紀は最後の実習記録を書き終え、入浴を済ませてベッドの上で買ったばかりの雑誌を広げていた。
そこには夏の旅行に必要なアイテムと称して、リゾート地でのファッションが紹介されていた。
康太との泊りがけの旅行は、結局、まだ一度も実現したことがない。
来年になって就職すれば、ますます難しくなるだろう。
これはなんとしても今年実行するべきだろうと決意も新たにする。
沙紀はさっきまでの塞ぎこんだ気持ちをなんとか奮い立たせ、携帯を手にした。
しかし、このところの康太の冷たい態度はどう考えてもおかしい。
さっきの電話の対応といい、美ひろの家の前にあった車のことといい、疑問がふくらむばかりだ。
よく考えてみれば、康太の新しいバイト先のことも詳細は何も聞いていない。
ピアノを弾くことになったとしか知らされていないのだ。
それがどんな店なのかもわからない。
他人を装って敵情視察といきたいところだが、そんな時間もなかった。
沙紀は携帯を持ったまま自分の部屋を出て、隣の和室の窓から康太の家の駐車場を確認した。
あった。彼の車だ。康太は帰っている。
康太の携帯番号を表示させ通話ボタンを押す。
畳の上に座り、彼が出るのを待った。
『沙紀か? 』
今度は早かった。
すぐに康太の声が耳元に届いた。
「康太……。今、大丈夫? 」
『ああ。さっきはすぐに切ってごめん』
「ううん。運転中だったんだものね。あのね、やっと実習終わったよ。やっぱ大変だった」
『そうか……』
「でね、あたしたち、ここのところずっと会ってないじゃん。だからいつ会えるのかなって思って。康太は次はいつバイト休めるの? 」
『……当分、無理』
「えっ? 」
沙紀は耳を疑った。
そんなはずはない。康太の実習中に約束したはずなのだ。
沙紀の実習が終わったら、すぐに会おうと。
「ど、どういうこと? 休み取れなかったの? 」
『うん……』
「うんって。康太、あたしの声聞いてる? ちゃんと聞こえてる? 」
『聞こえてる』
「じゃあ、あたしの部屋にもどって窓のところに行くから、直接話そうよ。でなきゃ、うまく伝わらない」
『その必要はないよ』
「どうして? なんでそんなこと言うの。康太変だよ。やっぱ変。何かあったの? バイトが大変なの? 」
あきらかにいつもと違う康太に沙紀は声を荒げる。
『おまえこそ変だろ? 俺に何か言うことがあるだろ。どうして黙ってる。やましいことがないのなら言えよ』
沙紀は携帯を握ったまま、ただ呆然と康太の話を聞いていた。
いったい何を言えというのだろう。
「……康太の言ってる意味わかんない。やましいことって……何? 」
『よーく自分の胸に手を当てて考えてみるんだな。俺が何も知らないとでも思っているのか? 』
「だから、何? 何のことだか、さっぱりわかんないよ」
『沙紀があいつと会っているのは知ってるんだ。なんですぐに言わない。どうして隠してるんだ。星川のやろう、俺に説教垂れやがった。おまえを縛り付けるなってな』
「それって……。部長と会ったの? ねえ、康太。いつ? どこで? 」
『どこでもいいだろ。とにかくあの日、すぐにでも連絡して欲しかった。俺を頼って欲しかった。あいつとは何でもないと言って欲しかった……』
「康太……。隠しておくつもりなんてなかった。そのうちちゃんと言うつもりだったんだ。実習で毎日ふらふらで、時間がなかったせいもあるけど、康太だって忙しそうで、電話もくれなくて……。あたしだってずっと我慢してたんだよ。なのに……」
沙紀は泣きながらも、なんとか話し続ける。
「電話しても冷たくて、いつもの康太じゃなくて、それに、今日だって……」
どうしてひろちゃんの家の前に車があったのと聞きかけて、おもわず口をつぐんだ。
沙紀は康太のことを信じていた。
誰が何と言おうと信じていた。
だからここで疑うような態度を取るべきではないと思ったのだ。
きっと、何か用があったのだ。
同じ町内に住んでいれば親が不在中である康太が代理で美ひろの家に出向くこともあるだろう。
今はなんとしても売り言葉に買い言葉の諍いは避けなければいけない。
「康太、ごめん。あたしが悪かった。部長のこと内緒にしててごめん。だから、会いたい。すぐにでも康太に会いたい……もしもし……康太? もしもし……」
康太の返事が消えて何度も聞き返していると、窓の外で短くクラクションが鳴った。
沙紀は携帯を手にTシャツと短パン姿のまま猛スピードで階段を駆け下り、ちょっとコンビニ行って来ると入浴中の母親に声を掛けて、家を飛び出した。
車の助手席にするりと滑り込むと、康太に抱きつき、自分からそっと唇を重ねる。
「沙紀、俺も悪かったよ。ごめん」
「康太、会いたかった……」
もう一度、懐かしいぬくもりを確かめるようにキスを交わす。
久しぶりのそれは、沙紀の不安と寂しさを一瞬にして忘れさせる。
何度も角度を変え、時に深く繋がり合う。
「沙紀……。おまえの声を聞いたら、あいつのことなんて、もうどうでもよくなったよ……。なあ、沙紀。ここでこんなことしてたら俺たちのことが近所中にバレちまう。場所を移そう」
康太はいつもの白い歯をにっと見せて、何週間ぶりかの笑顔を沙紀に披露してくれたかと思うと、おもむろに身体を離す。
それを合図に、沙紀はシートベルトを装着して、彼の運転に身を任せた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
今、日本中が、そして世界中が大変なことになっています。
諸事情で、更新が途絶えてしまうことがあるかもしれません。
どうかご了承いただきますよう、お願い申し上げます。
この混乱が一日でも早く終息いたしますように。
そして、皆様のご健康を心よりお祈りしております。