140 年上の人
康太はあの日の星川の挑発的な態度をありありと思い出していた。
どういうつもりであんなことを言ったのだろうかと……。
沙紀が星川の実家の幼稚園で実習をしている関係上、そういった接触を怖れていなかったと言えば嘘になる。
十分あり得ることだと危惧していたのも事実だ。
でも沙紀は絶対に自分を裏切ることなどないと信じていた康太にとって、星川の告げた内容は、彼を地の底に突き落とすほど衝撃的だった。
実習で疲れている沙紀を家まで送ったのは、康太でも誰でもない。
星川、その人だった。
そんなことがあったにもかかわらず、沙紀からは何も連絡がない。
たとえ実習中であるにせよ、夜に電話のひとつでもよこせば済むことなのに、それすら完全に無視だ。
黙っていればバレないとでも思っているのだろうか。
普段のありきたりのメールのやり取りに、沙紀への不信感が募る。
そんな中康太は、青山の家庭内のいざこざにまで加担しなければいけない現状にややうんざりしながらも、その昔、この同級生の自分への想いを無碍にも断ってしまったという負い目と、全面的に信頼を寄せてくれる店長への恩義のためにも、力にならざるを得なかったのだ。
「吉野君。沙紀ちゃん、何て言ってたの? 」
長い沈黙を破って、青山がようやく口を開いた。
「別に……」
「急用なら、沙紀ちゃんのところに行ってあげて。わたしなら、別に今夜でなくてもいいから。それに、吉野君にそこまでしてもらう理由なんてどこにもないんだもの。わたしが自分できっちりとカタをつけなきゃならないことだから」
「でもこれ以上引きのばしてもいいことないだろ? お母さんの実力行使がエスカレートして訴訟沙汰になっても困るだろうし」
「それは、そうだけど……。ねえ、吉野君。沙紀ちゃんには、その、吉野君から告白したの? 」
「…………」
「あ、ごめんなさい。わたし、どうしてこんな事訊いてるんだろう」
「ちょっと待ってくれ。あそこの駐車場に停めるから、そこで話を聞くよ」
康太は翠台に入ってすぐのところにある公園の駐車場に車を進める。
日中は家族連れの車ですぐに満車になる場所だが、こんな時間に停まっている車はいない。
青山も母親に会うことにためらいがあるのかもしれない。
少しでも気持ちを落ち着けて、それからでも遅くはないだろう。
それに、第三者とはいえ、青山は康太とも、そして沙紀とも深くかかわってきた古くからの仲間だ。
青山が納得するように沙紀との関係を伝えることは、康太の使命でもあるように感じていた。
街灯の光が充分に降り注ぐ明るい場所に停車させ、話し始める。
「青山には、本当に悪かったと思っている。あの時、あのように俺に正直な気持ちを伝えてくれたのに……。でも、すでに俺は沙紀を、その、好きになっていて。中三の夏休みくらいから、昔みたいな付き合いが復活して、二人で会うようになって。もう気持ちを止めることは出来なかったんだ。片想いだったけど、あいつも同意してくれて……」
「そうなんだ。でもね、きっと沙紀ちゃんもずっと吉野君と同じ気持ちだったんじゃないかな。あのね、中三の時だったと思うけど、沙紀ちゃんに吉野君が解いた数学のノートを見せてもらったことがあって。沙紀ちゃん、そのノート、とても大事そうにしてて」
「え? あ、あのノートか。そんなこともやってたな。沙紀がわからないところを、一緒に考えていたんだ」
康太はなつかしさで思わず笑ってしまいそうになる。
けれど、この後訪れるであろう青山の試練を考えると、そうも言ってられない。
「それでね。ほんの一瞬だったけど、計算じゃなくて、その、日記みたいな文章が見えて……。ご、ごめんなさい。見るつもりはなかったの。信じて。沙紀ちゃんが、ちょっとだけ部屋を出た時に、他にどんな問題が解いてあるのかなと思って、パラパラとめくってみたんだ。ノートの後ろの方だったと思う。これは交換日記? と思うような、そんな文章がぎっしり詰まってて。あ、これは見てはいけないノートだってそう思って、すぐに閉じたの。沙紀ちゃんと吉野君がお互いに意識してるなんて何も知らなかったし、数学に行き詰っていた時だったから、そのノートを借りようと思ったけど。でも、あれを見ちゃったら、貸してなんて言えなかった。言えるわけがないよ。だって、二人にしかわからないような、秘密のノートみたいだったから」
青山も思い出したようにふふふと笑っている。
「そうか、青山に見られていたんだ。そうだよな。勉強してるふりをして、本当は彼女とのやり取りを心待ちにして、うきうきと楽しんでいたのかもしれない。いや、実際楽しかったよ」
「わたし、それを見て焦ってしまって。その翌日に、吉野君にあんなこと言ってしまって。自分でもびっくりした。わたしのどこにそんな勇気があったんだろうって。でも後悔はしていないよ。吉野君もきっちりと気持ちを教えてくれたし。それに……」
「それに? 」
「大学で素敵な人に出会えたの。もし、あの時吉野君との思いが叶っていたら、その人と出会えなかったわけだし。でも別れちゃったけどね。それすらも今はよかったなって思ってるの。実はわたし。その……」
「なに? この際だから言ってしまえば? 沙紀には言わないよ」
「あ、別に言ってもかまわない。あのね、それが……。店長のこと……」
「店長? あの小崎店長のこと? 」
「うん。店長が……好きなの」
「え? 」
とんでもないカミングアウトに、康太も開いた口がふさがらなくなってしまった。
小崎店長。
確かに人望もあるし、人間的には尊敬できるすばらしい人だと思う。
けれど、青山とは歳が離れすぎている。
それに。
別居中と聞いてはいるが、妻子がいるはずだ。
奥さんが出産で実家に帰って以来、もう五年も別居が続いていると言う。
子どもにも会わせてもらえず、そろそろ調停でもしてけじめをつけなければ、ともこぼしていた。
「こんなこと言って、ごめんなさいね。でも、吉野君に聞いてもらいたかった。だってこんな話、誰にも言えないもの。お客としてあの店に通っている時から、店長のことが気になって、そして、どうしてもそばにいたくて、無理やり雇ってもらったの。奥さんと子どもがいるのも知ってる。言っとくけど、不倫とかじゃないから。もちろん店長にも気持ちは伝えていないの。そこはフェアを貫くつもり。わたしの本当の気持ちを知らないから、店長ったら、わたしと吉野君をくっつけようとしてるでしょ? あれは、ちょっとショックだけどね。店長の眼中にわたしはいないんだもの。だから、わたしには何も遠慮はいらないから。沙紀ちゃんにもう一度電話してあげて。ね? 」
「あいつなら、何かあったら、また電話してくるだろう。それに今は……。あ、いや、何でもないんだ。だから今夜は青山に付き合うよ。それにしても、青山が店長を……。どうやって応援すればいいのか俺にはわからないけど。それはそれで、青山が納得するように時間をかけて向き合うしかないよな」
「うん」
「じゃあ、そろそろ行こうか。でもまあ、店長がお母さんに何を言っても無理だったんだから俺が行ったところでどうなる物でもないとは思うけどね」
「ごめんね、何だか沙紀ちゃんに申し訳ないな……」
「いいって。青山のお母さんとは知らない間柄でもないし、少しでも突破口が見つかればいいかなとも思う……。着くぞ」
康太の家の二つ手前の筋を入ったところが青山の家だ。
門の前に車を停めて、康太は十数年ぶりに青山家のドアの前に立った。