12 揺れる心
康太視点になります。
沙紀の母親の襲来は康太にとって予想外の出来事だった。
けれど、隣は相崎家であって沙紀だけが住んでいるわけではないし、当然そこには家族もいる。
こんな簡単な事実はとっくに理解しているはずだったのに、沙紀との交流がことのほか楽しくて周りが見えなくなっていた自分の落ち度だと反省する。
沙紀は自分だけが受験生であると悲観している様子だが、それは大きな誤解であって、実は康太自身も受験生としての決断を下さなければならない時期に来ていることはまだ沙紀には知られていない。
今身を置いている私立の中学校からは学内選抜試験を経て系列高校に進学できるシステムになっている。
一般の高校受験生に比べるとそこまでの悲壮感はないが、学力が満たない場合、系列高校への進学が絶たれることもある。
しかし例年九割以上の生徒がそのままエスカレーター式に進学できている実績からも、康太には沙紀ほどの切羽詰まった事態は訪れていない。
学内の成績も充分に安心圏内に位置していることから、今の状態を維持していけば、苦労することなく高校生になれるのだろう。
が、しかし、康太はそんな自分に甘んじていることに疑問を抱き始めていたのだ。
将来なりたい職業はまだ何も決まっていない。どんな大学に進学したいのかもわからない。
このまま周りに流されて、偏差値のみで振り分けられる人生に希望など抱けるはずがなかった。
ピアノはずっと続けている。母以外の先生にも支持して、そこでは芸大への進学を前提にレッスンを受けていた。
もちろん、ピアノの道を進んでいくことに異論はない。
ところがそこでも康太の目指す音楽の道とはかけ離れた世界が繰り広げられていることに懐疑心でいっぱいになる。
芸大に合格するためだけのレッスンのように思えてならないのだ。
康太が今一番やりたいこと、それはサッカーだった。
小学校の二年生から始めて、四年生からは地元のプロサッカーのユースクラスにも在籍していた。
子どもの頃沙紀と野山を駆け回ったのが功を奏したのか、誰よりも早く走れたし、身体の中に染みついたリズム感が不思議とボール運びにもうまく作用した。
おかげでますます体力もつき、今度はそれがピアノにも好影響を与える。
ピアノとサッカー。まるで相反するような二つの世界が、康太の中でうまく融合されて心のバランスも取れていたのだろうと結論付けた。
残念ながら今の中学校ではサッカー部があるにはあるが、ほとんど活動らしいことはしていない。
週に二回全員で集まり基本練習をして、たまに紅白試合があるくらいだ。
それも人数が足らず、満足のいくものではなかった。
康太はどうしてもサッカーがしたかった。
そのためには、地元のスポーツが盛んな公立高校への受験が必要になる。
在籍している私学を退学することが可能なのか、そして一番の関門である親への説得をどうすればいいのか。
康太の気持ちは夏休みになってからより一層、大きく揺れ動いていた。
沙紀からもらったソーダ味のアイスを食べながら、両親にどう切り出そうかと真剣に悩んでいた。
松桜学院へ合格した時の母親の嬉しそうな顔を思い出すと、そう簡単に辞めるなどとは口に出せそうにない。
でもこのままずるずる引き延ばしていても、康太の心のもやもやが晴れることはないだろう。
今夜、康太の父親の慶太は早く帰ると言っていた。
よし、決戦は今夜だ! と声に出し、本日こそ天下分け目の関が原決戦の時だと、覚悟を新たにする。
そう決めると気分が少し楽になった。夏休みになって沙紀とノートをやり取りするうちに、康太の決心は日に日に揺るぎない物になっていたのだ。
さっきから窓の方が気になって仕方ない。
隣の母親に見られたとはいえ、ノートを渡してからもうすでに二時間以上経つ。
いつもならとっくに沙紀の返事が飛び込んできて、その次の交換タイムになっていてもいくらいの時間だ。
沙紀は中学で陸上部に所属している。
高校生になっても陸上を続けたいので、それを最優先で高校を決めるとつい先日ノートに書き込んでいるのを見たばかりだった。
沙紀が具体的にどこの高校を受験するのか気になるところだが、この辺の公立校で陸上が盛んなところといえば康太が行きたいと思っている北高ということになる。
ところが沙紀の勉強の追い込み具合から察するに、そこそこ強い陸上部のある東高ねらいという線も濃厚になってくる。
北高は文武両道的な校風の伝統ある高校。東高は進学に重点を置く比較的新しい高校であるが、国立大合格人数は地域内の公立高校でここ数年トップの座を誇っている。
康太はなぜか気持ちが揺らぐのを感じていた。
あれほど北高に行ってサッカーがしたいと思っていたのに、沙紀の進学先のことを考えるとせっかくの決心も右へ左へと大きく振れてしまう。
沙紀と同じ高校に行きたいと願ってしまうのだ。
「おい! 康太! お前は自分自身のために北高を受験するんだろ? 沙紀がどうしようとお前には関係ないはずだ! 」
と胸中で問いかけてみるも、沙紀のことが気になってしかたない。
思えば、あのノート交換から調子が狂いっぱなしなのだ。
康太は雑念を消し去ろうと、えいっ! と両手で頬を叩いてみる。
すると、パシっと頬を叩く音と重なるようにして、窓の外で声がした。
「こうちゃん……。こうちゃん……」
沙紀の声だった。康太は窓を開け、目の前の人物に視線を合わせる。
「あっ……」
確かに、沙紀だった。二重瞼の大きな目をいつものようにくりくりさせながらどこか嬉しそうに口元をほころばせているのだが……。
「こうちゃん、どうしたの? どっか具合でも悪い? 夏バテかな? 」
沙紀がますます窓から身を乗り出して、康太との距離を縮めてくる。
白いTシャツに、肩には黄色のタオルが掛けられ、下ろした髪からはしずくが垂れている。
「おい、濡れてるぞ、髪が……」
「あ、バレちゃった? 勉強は後回しにしてピアノ弾いてたら、汗びっしょりかいちゃって。ついでにシャワー済ませたんだ。さっきはママが突然来て、びっくりしたよね。今はもう大丈夫、買い物に……」
買い物に行ったからと最後まで聞き終わらないうちに、康太の手は勢いよく窓を閉めていた。
沙紀の濡れた髪が、紅潮した頬が、白いTシャツからすっと伸び出た細い腕が。
康太にはまぶしすぎて、それ以上見ていられなかったのだ。
こうちゃん、こうちゃん、どうしたの? と窓越しに聞こえる彼女の声すらかき消すほどのありえない心音に、彼自身が一番驚き、何も考えられなくなっていた。