137 たとえ好きであっても
「まあ、そうなの? でもね、私がこれを受け取るわけにはいかないわ」
「え……」
沙紀は絶句する。
勇気を出してここまでやって来たのに、瞬時に否定されてしまった。
気を悪くさせてしまったのだろうか。
実習生の身でありながら、とんでもないことをしてしまった、と思ってみても時すでに遅し。
「一応私はここでは立場のある人間だし、たとえ息子への預かり物だとしても実習生からこのようなものを頂くわけにはいきません。相崎さん。お気遣いはとても嬉しいです。でもね、もしあなたがそのような気持ちを持ってくださるのなら、本人に直接渡して頂けないかしら」
「あ、はい」
「ここだけの話なんだけれど、あの子の口から女の子の話が出たのは杏子ちゃん以外では相崎さん、あなただけなのよ。どういう心境の変化かは知らないけれど。あなたから渡してやってもらえないかしら……」
「あっ……。わ、わかりました。申し訳ありませんでした」
沙紀は深々と頭を下げた。
園長の手から再び沙紀の手に包みが舞い戻る。
でも、沙紀が自ら渡すわけにはいかないのだ。
康太のためにも、自分自身のためにも、もう二度と二人っきりで会わないと決めたのだから。
沙紀はせっかくの決意もここで振り出しに戻ってしまったのを知る。
これ以上園長に迷惑を掛けるわけにもいかないので、取りあえず幼稚園を出て、門の陰で水田を待つことにした。
一番最後に出てきた水田を捕まえるや否や沙紀は、手短にことの顛末を話した。
沙紀がまだ園の近くに残っていたことにかなり驚いていたが、その包みを預かることは快く承知してくれたのだ。
どこかでお茶でも飲まない? と誘われ、沙紀は近くのカフェに立ち寄ることになった。
そこは各テーブルが個室のように仕切られているので、人の目が気にならない。
今の沙紀にはほっとする空間のように思えた。
「ここならゆっくり話せるわ。実習中は忙しすぎてプライベートな話は一切出来なかったものね……」
水田は席に着くと後ろにひとつに束ねていた髪のゴムをはずし、頭を軽く振った。
それまではキリッとしていて仕事の出来る女性の見本のような出で立ちだったのに、急にやわらかい感じに包まれ、沙紀としてもこの方が話しやすい雰囲気になるものだから、不思議なものだ。
「園長先生はね、公私の区別をはっきりとつける人なの。たとえ相手が身内であってもね。家に帰れば近所の優しいおばさんになるし、母とも親友として打ち解けているのがわかるけど、一度職場に足を踏み入れると、プロの顔になる。おばちゃんなんて気安く呼べなくなるの」
水田は時折カフェオレを口に含みながらそう言った。
沙紀もさっきの園長の返答からそれらしきニュアンスは十分に感じ取っていた。
それこそが星川が言っていた誰にも愛されずにという言葉の本髄なのかもしれないとふと思う。
仕事中の園長は自分の子どもとはいえ、小さな星川少年を厳しく育て、甘えたい盛りの彼を突っぱねていたのだろうか。
そういう事情なら沙紀にも理解できる。
ただし、仕事の上で園長がそのような態度を取っていたのだとしたら、その本意を、あの賢い星川が見抜けないわけがない。
というか、そういったけじめがある関係をこそ、星川は望むだろうと推測できる。
「いやだ、相崎さん。ずっと黙りこんじゃって。実習の疲れが出たのかしら」
「あ、すみません。いろいろ考え事がぐるぐるしちゃって。それに、あたしの無理なお願いまで聞き届けて下さって……」
「心配しないで。これはちゃんと篤也に渡しておく。相崎さんの感謝の気持ちだって。それと、もうこれっきりにしてくださいという意味も含めて……でしょ? 」
「あ、いや、その……。ご、ごめんなさい。その通りです。部長とは、もう……」
沙紀は水田にすべて見透かされていることに目を丸くしながらも、認めざるを得ない。
「ねえ、相崎さん。人の心ってどうしてこうもうまく通じ合わないのかしらね。あっ、もちろん、あなたには素敵な彼氏がいるわけだし、こんなこと言っても仕方ないけれど……」
沙紀は耳を疑った。
今確かに水田は心が通じ合わないと言った。
彼女にもそのような想い人がいるのだろうかと勘ぐってしまう。
そして、それはもしかして……。
「あのね、たとえ好きであってもそれだけで結ばれるわけでもないのよね。篤也だってそう。あなたに片想いして、苦しんで、結局報われない」
「そ、それは……」
沙紀ははっとして水田を見る。
彼女は何か思い違いをしている。
「ご、ごめんなさい。そういう意味じゃ。あなたのせいじゃないから、気にしないで」
「い、いえ。違うんです。それが……」
「何? どうしたの? 」
沙紀はあの夜のことを思い出していた。
確かに星川が沙紀に心を寄せてくれているのは認めるが、もっと深い部分で彼が欲している人物が他にいるというのを、あの時、彼の口から聞いたのだ。
「部長は、かなり苦しんでいらっしゃるようなんです。話を全部聞いたわけじゃないんですが、あたしじゃない誰かを心の奥で想ってらして、でも報われないと……。それに、誰からも愛されずに、小さい頃から自分しか頼れなかった、ともおっしゃってました」
「篤也が? そんなことを? 」
「はい……」
水田の顔色がさっと変わり、沙紀から顔をそむけた。