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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第十三章 ドヴォルザーク スラブ舞曲
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135 禁断の領域

「結局、吉野は音楽の道には進まなかったんだな」

「はい。来月にある、県の教員採用試験を受けると言っていますから」

「採用試験ね。親父は多分本気だ。その親父にまだレッスンを受けているってことは、あいつもまだ迷いがあるんだろうな。たぶん親父は俺がピアノの道に進まなかった分、あいつに賭けているんだと思う」

「そうなんですか……」


 沙紀も時折り星川と同じような気持ちになることがある。

 康太が本当にやりたいことは、やはり音楽ではないのかと。

 でも、彼は否定する。趣味で続けていくから、もうその話はするなと言って、取り付く島もない。


「今、作曲やアレンジの方に首をつっこんでいるんだけど、よっぽど俺にはこの方があってるよ。将来的には世界中のアーティストのマネージメントなんかもしてみたい。クラシック、ポップス、ロック……。ジャンルは問わないよ。相崎はもう歌をやらないのか? 」

「へっ? う、歌ですか? 」


 あまりにもスケールの大きい話を聞いたすぐ後だったものだから、沙紀はいきなり自分に話が及んだことに、気持ちがついていかない。

 それに歌のことを訊かれても、あまりピンと来ないのが正直なところだ。


「そうだ。持って生まれた声は宝物だ。欲しくても誰もが手に入れられるわけではない。それを生かすも殺すも、自分次第。そして周りの人間次第だ」

「あたしの声なんて、そんな価値のある物じゃないですよ。歌うって言っても……。園児への歌の指導とか、あと、友人達とカラオケに行くくらいですが」

「まあそれも仕方ないな。君も音楽の道は選ばなかったわけだから。その声を聞ける園児は幸せ者だよ、全く。……そうだ、相崎。俺ね、まだ誰にも言ってないんだけど、今度の春、大学院を出たら、アメリカに渡るつもりなんだ。イギリスとどっちにするか迷ったんだけど、俺の方向性はアメリカの方が近いような気がしてね。向こうに知り合いがいるんだ。音楽事情に詳しい人で、その人の助言に従ってみようと思う。音楽学校に入って作曲の勉強を一からやり直してみるつもりだ」

「そ、そうなんですか」


 沙紀は徐々に気が重くなっていくのを感じていた。

 まだ誰にも言っていないような大事な話をどうして自分になど聞かせるのだろうかと、理解に苦しむ。

 星川にははっきりと告げたはずだ。

 自分には彼氏もいるし、個人的に会うことはできないと。

 なのに、このような親密な会話を続けようとする星川に不信感しかない。


「さーて、着いたみたいだな。残りの実習がんばって。困ったことがあったら何でも杏子に相談しろ、いいな」

「はい。部長、今夜はその、ありがとうございました」

「家の前まで送り届けることが出来ず、申し訳ないが。くれぐれも気を付けて」

「あ、あのう、部長……」

「なんだ? 」


 沙紀はどうしようかと迷っていたが、やはりこれだけは聞いておきたいと、勇気をふりしぼって訊ねてみることにしたのだ。


「あの……。部長の将来のこととか聞けて、あたし、大変光栄だと思います」

「そうか。それで何か? 」


 星川が怪訝そうな目をして訊ね返す。


「でも、なんであたしなんかにそんな大切なことを話すんですか? 杏子先輩とか、その……もっと部長にふさわしい人がいると思うんですけど」

「俺にふさわしい人? なんだそれ。相崎じゃダメなのか? 」

「ええ。ダメです。部長だって、本当に心から想っている大事な人がいるはずです。あたしなんかじゃなくて、もっと……」

「もっと? 」


 星川の眉が吊り上り、一瞬のうちに表情が強張る。


「そ、そうです。もっと、心を寄せ合う人が。部長のことを理解してくれる人が……」

「……いるよ。確かに……いるのかもしれない」

「じゃあ、なんで? なんであたしなんですか? その人にちゃんと話すべきだと思います」

「でも、そいつは俺を望んでいない。俺じゃないんだ」

「え? 」


 星川の暗く沈んだ声が車内に重く響く。


「いったい君に何がわかる? 俺の何がわかるって言うんだ。君には心が通じ合える人がいるから、簡単にそんなことが言えるんだ。誰にも愛されずに、小さい頃から自分しか頼れる者がいなかった人間の気持ちが、相崎にわかるのか? どうなんだ! 」


 星川は両手で勢いよくハンドルを叩きつけ、思い詰めたような鋭い視線を沙紀に投げつける。

 こんなに激高した星川を見たのは初めてだった。

 触れてはいけないところに踏み込んでしまったのだろうか。


 沙紀は、震える声でごめんなさいとそれだけ言い残し、身を縮ませながら車を降りた。

 そのまま振り返ることも出来ず、曲がり角の前まで走って行く。

 沙紀の頭の中には、さっきまで車内で聴こえていた悲しい三拍子のリズムが繰り返し刻まれる。

 美しいメロディーのはずなのに。

 こんなにも泣きたくなる音楽は今までに聴いたことがない。


 星川は、誰にも愛されずに、自分しか頼れる者がいなかったと言っていたが、それがどういう意味なのかまだ理解できない。

 幸せの象徴とも言える、音楽で満ち溢れた夢のような幼稚園のすぐそばで育ち、近くには美しく聡明な幼なじみの水田もいる。

 父親は温厚で人望もある大学教授だ。

 何不自由なく育ったように思える星川の放った言葉とは到底思えない。

 

 いろいろなことを考えながらつつじの植え込みを回って表の道に出ようとした時、いつまでたってもエンジンのかからない車の方に目をやった。

 そこには、ハンドルに突っ伏したままじっと動かない星川の姿が街灯に照らされて、暗闇にはっきりと浮かび上がっていた。


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