134 スラブ舞曲の夜
「今、実習中なんだってな」
星川は猫を肩の辺りで抱きかかえるようにして沙紀を見下ろし、目を細めて言う。
「は、はい。でもまさか、こんなところで部長にお会いするなんて、思ってもみなかったから……」
「びっくりした? 」
「はい。変な人だったらどうしようって……」
「おいおい、それはいくらなんでも。なあ、しろ」
猫に向かって同意を求めている。
「部長とわかって、ホッとしました」
「そうか。で、もう聞いてるかもしれないが、俺は今、月の半分以上は東京に行ってるんだ。院の方は単位もギリギリってところだけど、今やってることは音楽に全くの無関係なわけでもないから、教授も大目に見てくれてるよ」
さあ、お帰り……と言って猫を地面に下ろした星川は、あっくんの様子を見届けたあと、車の方に歩き出す。
「今、帰りなんだろ? 送っていくよ……」
と言った瞬間、星川は何かを思い出したかのようにふっと息をもらし、運転席のドアにもたれるようにして腕を組み、物憂げな面持ちで新月の夜空を見上げている。
「……そうだった。以前も……。俺が余計なことをして、確かあいつがご立腹だったよな」
あいつとはもちろん、康太のこと。
水田先輩の家に行った時の帰りに送ってもらったあの日のことを言っているのだ。
「部長、すみませんでした。あの時は彼が怒ってしまって。あたしもちゃんと説明しなかったのがいけなかったんです。あの、バスに乗れば家まですぐなので、送っていただかなくても、その、大丈夫です」
「よし、わかった。じゃあ、バス停まで。それならいいだろ? 」
「えっ? で、でも……」
しり込みする沙紀の腕を掴み、助手席のドアのところまで連れて来られたかと思うと、車内に無理やり放り込まれる。
いくらなんでもこれでは、第三者が見れば誘拐とも受け取られかねない荒業にしか見えない。
「部長、困ります。あたし、一人で帰りますから。本当に気になさらないで下さい」
ドアに手をかけ、車から降りようとするが、抵抗も虚しく星川に止められる。
「そんなふらふらな足取りで? さっき、杏子から聞いたんだが、この一週間ほとんど寝てないんだろ? 頑張りすぎる君のことが心配だと言ってたぞ。前みたいなヘマはやらないから安心しろ。俺だって、命は惜しいからな、あはは! 」
結局、車はバス停で止まることは無く、そのまま翠台に向って走って行く。
「あの、本当に困るんです。あたし、こう……あ、いや、吉野君と約束したんです」
「どんな約束? 俺に近付かないとか? 」
「あ……。す、すみません……」
いくらその通りであったとしても、はい、そうです、接近禁止命令が出てます、なんて先輩に向かって言えるわけがない。
沙紀が謝った後、沈黙が続く。
さっきから車の中に流れているどこかもの悲しげなメロディーだけが、二人の間を埋めていく。
タイトルは知らないが、胸が締め付けられるようなマイナーな旋律に聞き覚えがあった。
もしかしたら、康太が聴いていたことがあったのかもしれない。
いや、ドラマの中で使われていたのかも。
間違いなく康太が好きなメロディーラインだ。
「君の彼の気持ちもわからなくはないが……」
星川が唐突に話し始める。
「俺ね、去年くらいからバイトに行く時、翠台経由で店に通ってたから、あの辺りの土地勘は結構身につけたつもりなんだ。あ、別に君をストーカーしてたとかそういうんじゃないから。距離的には遠回りに見えても、信号も交通量も少ないから、結局その方が早く着くんだ」
康太も時々そのようなことを言っていた。
遠回りをしてでも交通渋滞を避けた方が目的地に早く着くと。
「人目に付かないように、君んちの裏の通りに入るから心配するな。あいつには知られないようにする。それにあくまでも送っていくだけだから」
「……はい。わかりました」
ここまで言われたら、もう返す言葉もない。
「我が親の職場ながら、あそこの実習がハードだってことは昨日今日に始まった話じゃないからな。途中で挫折するやつも多い。母に頼まれて、実習中に体調不良になった学生を家まで送り届けたこともある。まあ、半分義務みたいなもんだから、気にするな。ところで、吉野は……。相変わらずか? 」
まさか久しぶりに顔を合わせた星川から、彼のことを聞かれるとは思っていなかったので、返事に詰まってしまう。
今流れている曲を聴きながら康太を思い浮かべていたことを、気付かれたのかもしれない。
「あいつが俺の親父にピアノのレッスンを受けてるのは知ってる? 」
「あ、はい」
一度、佐藤楽器店でレッスン中に星川と鉢合わせしたと言うのは、康太から聞いていた。
星川が、父親である教授と親子関係がうまくいっていないこともそれとなくは知っている。