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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第十三章 ドヴォルザーク スラブ舞曲
132/188

130 動き出す運命

 大学生になって四度目の春が過ぎ、教育実習のシーズンを迎えていた。

 三年の時に二週間、そして今また二週間の実習が始まろうとしている中、沙紀はやや憂鬱な気持ちを胸に抱えていた。

 去年の実習は大学の付属幼稚園で行なわれ、学生の人数が多かったこともあって、観察実習と部分実習中心で、仲間内で協力し合って楽しみながら無事乗り切ることが出来た。

 ところが今度はそうはいかない。

 全日実習も組み込まれ、おまけに同じ大学の仲間は誰もいない。沙紀一人だ。


 それに……。

 沙紀が今回配属された実習園というのが、こともあろうに、あの風の森幼稚園なのだ。

 大方の学生が出身幼稚園や、公立幼稚園での実習を経験するのだが、沙紀が幼い頃通っていた幼稚園は今の家からは遠すぎて通えない。

 それに地域に公立幼稚園が少ないせいで、大学の斡旋する私立幼稚園に有無を言わせず配属されてしまう結果になる。

 風の森幼稚園の場合、その特性から、学生の音楽課目の成績やピアノの技術の可否も問われるため、その条件にぴったり合った沙紀が担当教授から推薦されるのも無理はない。

 風の森幼稚園に決まったのは去年。

 今さらもうどうすることも出来ない。

 康太に相談すると案の定、たちまち不機嫌になり、それ以来この話は二人の間ではタブー視されている。


 沙紀は康太が不機嫌になる理由はわかっていた。

 風の森幼稚園イコール星川の実家であるというゆるぎない事実がそこに存在するからだ。

 しかし星川とは一年の時のOB演奏以来顔を合せていない。

 それにまどかの情報によれば、彼は作曲や音楽プロデュースの世界に名を広めつつあるため東京に出ていることも多く、実はもうこの街にはいないのではないかなどと、まるで都市伝説のようにまことしやかに語られている。

 それくらい星川に会うのは困難を極めるということだ。


 しかし実家と言っても幼稚園とは全く別の敷地にあるので、仮に星川が家にいたとしても鉢合わせす可能性は非常に低い。

 たとえ会ったとしても、もうあれから三年も経つのだ。

 いくらなんでも彼にも新たな出会いもあるだろうし、なんと言ってもあの類い稀なルックスとリーダーシップの持ち主である星川を周りの女性が放っておくわけがないのだ。

 沙紀は康太の心配など、取り越し苦労だと信じて疑わなかった。


 沙紀は去年、配属が決まってすぐに幼稚園に挨拶に行ったのだが、その時は園長が不在で水田先輩の母親である水田主任が優しく応対してくれた。

 そして実習を直前に控えた今日、詳細な打ち合わせのため再び幼稚園に出向くことになっている。

 大学から電車とバスを乗り継いで幼稚園に向う。

 いつもなら何を差し置いても康太が送っていくと言って聞かず、沙紀も甘えることが多かったのだが、その日は彼女一人だった。

 というのも康太は小学校での実習が今日まであり、自由が利かない。


 そうなのだ。

 沙紀はこのところ康太ともほとんど会っていない。

 こんなにも会えない日が続くことがかつてあっただろうか、と思えるくらい彼とはずっと離ればなれだ。

 真夜中に窓越しに話すわけにもいかず、たまに聞く電話の声と、メールのやり取りくらいしかつながりが持てない。


 康太とはそれなりに仲良くやって来たと思う。

 何でも話してお互いを思いやって過ごしてきたと胸を張って言える。


 そんな中、明日から沙紀の実習が始まればまたもや会えない日が続くことになる。

 それに、今夜から康太は再びバイト三昧の生活に戻る。

 それも居酒屋から別の店に変わるというのだ。

 居酒屋のオーナーが多角的な経営戦略を展開していて、ファミリーレストランから和食レストラン、カフェまでさまざまなタイプの飲食店を手広く運営しており、ピアノの腕を買われた康太はピアノの生演奏が売りのレストランに配置転換になったのだ。

 つまり、沙紀の実習のあるなしにかかわらず、しばらくは康太と会えないのは必然的ななりゆきだとも言える。

 この二週間、不安もあるが、力の限りを出し切ってなんとかがんばってみようと、決意も新たに幼稚園の門をくぐった。




「せ、先輩……」


 沙紀は通された保育準備室で、にこやかに微笑む目の前の人物に釘付けになり、口をぽかんとあけたままその場で固まってしまった。


「相崎さん。お久しぶり。元気そうね」


 その人は以前と変わらない澄んだ大きな眼を優しく見開いて、心の底から沙紀をなつかしんでいるようだ。


「先輩、ど、どうしてここに? 」


 沙紀は彼女が地元の女子大の音楽科に行っていたのは知っていたが、どうしてここにいるのかまだわからなかった。

 家が近いからたまたま何かの用事でいるだけなのかもしれない。

 確か水田は幼稚園教諭の資格はないはずだ。


「あのね、園長先生の方針で三月に突如採用が決まってね……。私は幼稚園教諭の免許はないんだけど、音楽療法士の資格を持ってるの。それで、ここの幼稚園は今後、特別支援教育やこども園として移行することにも力を入れていく方向を打ち出しているので、私に白羽の矢が当たったってわけ。今ね、大学の通信教育をやってて、幼稚園教諭や保育士の免許も来年には取れる予定なの」


 さあ、そんなに驚かないで座って、と水田に言われ、沙紀はようやくこの状況を理解し始めて、用意された園児用の小さい椅子にあわてて腰を下ろした。

 水田は、私もまだ日が浅くて指導できる立場じゃないけれど……などと謙遜しながら、冊子をめくり、行事や幼稚園の園舎内部の説明をする。

 これまでも、ほとんどここの幼稚園の関係者と変わりない立ち位置だった水田のことだ。

 冊子を全く見ずとも、こと細かに説明できるし、沙紀の質問にも的確な答えが帰って来る。


「あと、カリキュラムは水田主任が説明するので。あっ……もちろん、私の母よ。ここでは母も子もないので、容赦なくビシビシやられてるわ。私がみんなの足を引っ張っているところを相崎さんに見られちゃうわね。お互い若葉マーク同士、助け合っていきましょうね」


 沙紀はいつの間にか、ついさっきまで抱いていた不安がどこかに消えてしまったのに気付いた。

 他に仲間がいなくても、水田がいれば誰よりも心強い。


 その後、水田主任に膨大な量の楽譜を渡され、綿密な指導計画の書き方の指導を受けても、怖気づくことはなかった。

 一日でも早く、子どもたちと一緒にいろいろなことを実践してみたいと、はやる胸を抑えるのに苦労するほど前向きになっていた。


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