11 まるで交換日記
十分ほど経っただろうか。窓が開き、今度は康太の側から彼の虫取り網が突き出され、問題集と何やらかわいらしいキャラクターノートが宙を舞い、沙紀の元に返されてきた。
沙紀はそのノートを見て唖然とした。なんとそれは沙紀が小学生の時に康太に贈った誕生日プレゼントのひとつだったのだ。
使わずに今まで大切に取っておいてくれたのかと思うとちょっぴり胸がキュンとした、と感じたのはほんの一瞬で、その奇抜さと趣味の悪さゆえに今日まで使う機会がなかったというのが答えのような気がしないでもない。
「おい、さっさと取れよ」
「あ、ありがと」
目にも止まらぬ早業とはこのことを言うのだろう。沙紀が問題集とノートを手にした瞬間、虫取り網は彼側にサッと引っ込められる。
そして何事もなかったかのように、ピタッと窓が閉められた。おまけにガチャッと鍵をかける音まで伝わってくるものだから、言いようのない腹立たしさが湧きあがってくる。
けれど今は、そんなことよりも問題集が最優先だ。
どれどれと中を見てみると、丁寧に解いてある問題の解答の最後に、わからないところいつでも請け負うぞ、などと書かれているではないか。
そうこなくちゃ。さすがこうちゃんだ。持つべきものは友達なり。うんうん。
いや親友なり。いや彼氏なり……。という言葉が沙紀の頭をよぎったが、やはり最後の彼氏というのはちょっと違うよなあとしっかり打ち消しておいた。
康太とは世間一般にいう恋人同士のように付き合っているというわけではなかったが、いまだにお互いの家の行き来は続いているし、その辺の出来立てほやほやカップルより、よほどウマが合うし話もいっぱいしていると沙紀は自信たっぷりにそう思っていた。
ピアノも弾けて、勉強もがんばってる康太は沙紀にとっては自慢の同級生だ。
字もきれいで、説明もわかりやすいし、めんどくさそうだけど沙紀の相手もしてくれる。
本当にいいやつだ、となぜか彼のことばかり考えている自分に気付き、ふと我に返る。
数学の公式よりさっきの康太の横顔が、そして会うたびに低くなっていくハスキーな声が何度も脳裏をかすめ、沙紀はますます勉強どころの騒ぎではなくなっていたのだ。
顔をパンパンと叩いて気合を入れなおし、邪気を払って数学に向き合った。
しかし目の前のなつかしい康太の文字が、沙紀の思考をすぐに停止させる。
これは暑さのせいだ。それに昨夜は少しばかり睡眠不足だったし。
いろいろ言い訳を考えてみたが、どれも原因には結びつかない。
とうとう勉強するのをあきらめ、ピアノを弾くために一階に下りて行った。
夏休みの間に何度も往復したキャラクターノートは、すでに表紙が擦れて、角が折れ曲がっていた。
もう書くところもほとんどなくなり、次は沙紀がノートを提供する取り決めまで出来ている。
そうなのだ。最初のうちは純粋に勉強のためのノートだったが、一週間も経たないうちに、それはただの交換日記と化してしまっていた。
もちろん沙紀にはそんな深い意図はない。あくまでも勉強のノートだと胸を張って言える、と思っている。
前半は確かに難問の解き方がずらりとノートを埋めていたのだが、そのうち自分で辞書引きゃわかるだろうという程度の英語の質問まで登場するようになり、挙句、受験勉強に対する沙紀の不満が延々綴られるようになると、それを康太が哲学的な文章でなだめるという構図が出来上がるまでになった。
誰が見てもこれはもう交換日記以外の何物でもない。沙紀も薄々現状を認めつつあった。
夏休みも残りあと一週間という残暑の厳しい昼下がりに、いつものようにネット部分にノートを入れ沙紀の部屋の開いている窓に康太がそれを突き出したその時……だった。
「ああ、暑い暑い! 今年の夏はお盆過ぎても暑いったらありゃしない。沙紀、アイス持ってきたわよ。一緒に食べま、しょ、って、ええええ? 」
春江がアイスを手に突然沙紀の部屋に入って来たのだ。
もちろん春江の視線は怪しげな動きを見せる窓の方向に注がれている。
やばい。見られてしまった。康太もびっくりした顔をして固まっていた。
春江はそんな二人を見て、全てを悟ったように満面の笑みを浮かべ、軽く咳払いをする。
「コホッ! あらあら、ごめんなさい。おじゃましちゃったわね。あんまり暑いものだから沙紀とアイス食べようと思ったんだけど……。暑さの原因はこの部屋だったのかしら? おっといけない。私、ダイエット中だった。そうだ、このアイスお二人でどうぞ。ではごゆっくりーーーー」
春江は鼻歌交じりでツーステップを踏みながら、部屋を出て行った。
行き場を失った康太の虫取り網はいまだに空宙に浮いたままだ。
あまりのショックに声も出なくなっていた沙紀は、あわててノートを手にする。
「こうちゃん……ゴメン。うちのママの言ったことなんて、気にする必要なしだからね。あとでよーーく言っておくから。勉強中だったって」
沙紀はノートを両手で持って勉強している証拠だと言わんばかりに康太にアピールする。替わりにネット部分にアイスをポトンと入れた。
「ちゃんと勉強中だったって言ってくれよ。頼んだからな。で、でも……。最近、勉強のこと何も書いてないよな? 俺、思うんだけど、それって交換日記みたいじゃね? 」
「交換日記? ああ、そんな感じだね。あたしもそう思ってた」
沙紀は手元のノートをぱらぱらとめくってみた。どこをどう見ても交換日記にしか見えない。
「だから……気をつけろよ。誰にも見られないようにな。アイス、ありがとう。じゃあ……」
康太は心なしか照れくさそうにそっぽを向いたと思ったら、それっきり沙紀と目を合わせようとはせずに、いつになく乱暴に窓を閉めた。
「気をつけろよ、誰にも見られないようにな……って」
沙紀はもう一度ノートに目をやり、康太の言葉を反芻する。
そしてこれは交換日記なるものらしいと改めてノートをじっくりと眺める。
今どきこんなことをやってる人なんて見たことないけど、携帯を持っていない中学生にはありがたい連絡手段だ。
でも小説や漫画に出てくる交換日記は恋人同士がこっそりとやっているイメージだ。
ならば康太と恋人同士ということになってしまう。いや、それはない。絶対にない。
でも康太以外の誰にも見られたくなかった。二人だけの秘密の往復書簡なのだから。
沙紀は机の一番下の引き出しを開けると、それを底の方にそっとしまった。