表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第十二章 ショパン ノクターン変ロ短調 作品9-1
126/188

124 杏子と篤也

 何でも卒なくこなし、いかなる時でもクールさを見失わない星川が、失恋の痛手で落ち込んで手が付けられなくなるほどの状態になるだなんて誰が想像できるだろうか。

 それは彼も人並みな感情を持ったごく普通の人間であるということなのだろう。

 沙紀にとって雲の上の存在であった星川が、急に身近に感じられる瞬間でもあった。

 沙紀はうっとりするような目をして、星川が好きだった女性に思いを馳せる。

 まるで恋愛小説を読んでいるような気持ちになっていくのだ。


「あの星川部長が荒れてただなんて、信じられないです……。部長の好きな人ってどんな人だったんだろう。年上ですっごくきれいな人だったりして……」


 沙紀の頭の中で壮大なラブストーリーが展開されていく。

 それは、中学生の星川と女子高生の実らぬ恋を描いた物語。

 女子高生も少なからず星川のことが気になっているのだ。

 けれど、素直になれない美しい彼女。

 こんな年下の男の子に恋をするなんて、自分らしくない、などと思っているのだ。

 そんな彼女の為に奏でられるロマンチックなメロディーはもちろんショパンのノクターン。

 しかし、その曲を最後まで聞き終わらないうちに、彼女は部屋を出て行ってしまう。

 それに気付いた星川だったが、中断することもなく。

 そのまま奏で続けるのだ。彼女がいなくなっても、永遠にノクターンの調べは鳴りやまない……。


「……相崎さん? 大丈夫? 」


 水田の声に我に返った沙紀は、脳内にまだ流れ続けているノクターンを強制終了して、はいっ、とあわてて返事をする。


「すみません。つい、いろいろ想像してしまって。あの……。水田先輩は知ってるんですか? その人のこと」

「えっ? ああ、篤也の好きだった人のことね。も、もちろん知ってるわ。でも……。年上じゃない、多分……。もうこの話はやめましょう。きっと今ごろ篤也はくしゃみの連発ね」


 あはは……と笑いながらさりげなく話題を変える水田は、どこか遠い目をして何かを思い出しているようにも見えた。

 そうか、年上の彼女じゃないのか……。

 さっきの壮大な物語が一瞬にして無意味なものになってしまった。


「ねえ、相崎さん。お腹すかない? あのね、家を出る前に下ごしらえをしておいたから十五分ほどで用意ができるんだけど。夕飯、一緒にどう? 」

「そ、そんな。そこまでお世話になるわけには……。ここからならバスでも帰れますので、あたし、そろそろ失礼しなきゃ」

「そんなこと言わないで。だって母だって遅くなるし、あいつだって……」

「……あいつ? あの、他にどなたかいらっしゃるのですか? 」

「あ、いや、誰も来ないわよ。猫……なの。そう、猫のえさをやらないと」


 幾分不自然さの残る会話だったが、猫と聞けば黙ってはいられない。

 動物好きな沙紀は猫も飼いたくて仕方なかったのだが、家には犬のポチがいるので親に反対されてしぶしぶ飼うのをあきらめていたのだ。

 俄然、沙紀の目が輝きを増す。


「なんて名まえなんですか? その猫」

「名まえ? ちょっと恥ずかしいんだけど。あっくんていうの。野生児でね。我が家と木下家の敷地一帯が彼のテリトリーで、夜になるとうちの縁側の下に帰ってくるのよ」


 あっくんのいったいどこが恥ずかしいのだろう。

 オス猫だろうか。いい名まえだと沙紀は素直にそう思った。


「あっくんって、かわいい名まえじゃないですか。じゃあ今も名まえを呼べば姿を見せてくれるんですか? 」

「そうね。きっとその辺にいるわ。ちょっと待ってて」


 水田はそう言って台所に入ると、片隅に置いてある白い皿に缶詰のえさを盛り付け、それを手に縁側の引き戸をあけて、庭に下りた。


「あっくん、あっくん。ご飯だよ。あっくん! 」


 沙紀はなんだかわくわくした。どんな顔をした猫が現れるのかと。

 そしていつの間にか一緒になって名まえを呼んでいた。


「あっくん。あっくーーん……」

「おかしいわね。どこに行っちゃったのかしら」


 その時だった。あたりがすっかり暗くなった庭で、うら木戸を開けてこちらに向ってくる人影が見えたのだ。


「……杏子? こいつならここにいるぞ」


 よく知った声の主が腕の中に白い毛並みの猫を抱きながらやって来る。


「ほら、シロ。おまえの家だぞ」


 猫が彼の腕の中から飛び降りると、杏子の足元に擦り寄ってきた。


「いい加減、その変な呼び方やめろよ。紛らわしくてしょうがない。シロでいいだろ? 」

「あ、篤也。そんなことより……。なんでこんなに早いの? 練習は九時までじゃ……」


 シロと呼ばれていたあっくんらしき猫を足元から抱き上げながら、水田が驚いたように目を見開いていた。


「そうだけど。今日は、どうもみんなの集中力がなくて、OB会長が早めに切り上げて親睦会に切り替えようって。今、みんなを店に誘導中なんだ。俺は車を置きに帰ってきたんだけど、駐車場にシロがいたから……。えっ? 」


 その人は沙紀の姿を視野に捉えた瞬間、声を詰まらせた。


「相崎? 」

「は、はい……」


 話題の人物がひょこり現れたものだから、沙紀の方が動転してしまう。


「なあ、なんで相崎がここにいるんだ! 杏子、おまえが家まで送っていったんじゃなかったのか? 」

「そうよ。でもまだ時間も早かったし、相崎さんと話もはずんでしまって。別にいいじゃない。ここは私の家なんだし。あなたが勝手に早く帰って来ただけでしょ? 」


 星川が沙紀をじろりと見た後、さも不機嫌そうに水田に対して怒りを露わにする。


読んでいただきありがとうございます。

沙紀の妄想内のピアノ曲は、ショパンのノクターン 変ロ短調作品9-1 です。

とても有名な作品9-2とどちらにしようか迷ったのですが、星川が弾くのなら、やはり9-1だろうと、設定した次第です。

動画サイトにもたくさん公開されていますので、是非、お聴きになってみてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ