123 付き合ったことがないの
「はい、これを飲んで」
一階ロビーの休憩椅子に座っていた沙紀は、杏子から紙コップに入ったコーヒーを受け取った。
「飲んだら帰りましょう。今夜は私が送るわ」
沙紀は驚いたように顔を上げると、隣で同じようにコーヒーを飲む水田を見る。
「で、でも。先輩はピアノ伴奏があるんだし、その……あたしはもう大丈夫ですから」
休憩時間に小笠原に陰湿な言葉を浴びせられ、取り乱しそうになったところを水田に救い出された沙紀は、湯気の立ち上るコーヒーを両手で包むようにして持ちながらそう言った。
「大丈夫なわけないでしょ。顔色だってよくないわ。ピアノのことなら心配いらないの。篤也が適当にやってくれるって。そりゃあ自分で作った曲だもの、弾きながら一人でなんとかするわよ。ね、もう帰りましょう。それとも誰かが迎えに来てくれるの? 彼氏とか? 」
「い、いいえ。一人で帰ります。カレはバイトですから。でも先輩にそこまでしていただくのは、なんだか申し訳なくて」
「何言ってるの。いいのよ、そんなこと気にしなくても。今日は私も車で来てるから送っていけるしね。たまにはこんなこともいいじゃない。私ね、あなたのこと、なんだか放っておけなくて」
「せんぱい……」
沙紀は空になった紙コップを備え付けのごみ箱に入れると、水田と一緒に市民センターを後にした。
「えーっと。相崎さんの家は、確か翠台……だったわね」
運転席で正面のミラーを定位置に動かしながら、水田が訊ねる。
「はい。あっ、駅前まで送っていただけると助かります」
「どうして? せっかくだから家の前まで送るけど……」
「いや、ちょっと駅前で時間つぶしてから帰ろうと、そう思って」
「それもそうね。だってまだ夕方だもの。家の人にも余計な心配かけちゃうわね」
じゃあ決まりね。とハンドルをポンと叩くと、水田は沙紀の思う道を大きく外れ、車を発進させていく。
そしてたどり着いたところは……。
風の森幼稚園。
だった。
「先輩。ここは……」
「ふふふ。幼稚園の裏手が木下家の邸宅になってて……。あっ、木下って言うのはね、篤也のお母さんの実家になるの。篤也のご両親は事情あって木下姓に変わったんだけど、彼は星川のままなのよね。あれ? 私ったらなんでこんな話してるんだろ。相崎さん、ごめんね」
沙紀は前に木下教授が水田と同じことを言っていたのを思い出していた。
でも教授と知り合いであることは彼女に悟られるわけにいかない。
初めて聞いたというような顔をして、そうですかと頷くにとどめておいた。
「で、その裏の小さな家が私の家なの」
幼稚園の裏手の路地を進み、小さいと言いながらも、沙紀の家よりは明らかに数倍は広い敷地のその家の前に車が止まった。
「母はね、趣味の山登りに忙しくて。誰もいないのよ。どうぞ、上がってちょうだい」
沙紀は何が何だかわからないまま、杏子に背中を押されるようにして、家の中に入っていった。
沙紀の家よりずっと築年数も古いその家には南側に縁側があって、庭には松やもみじが植えてある。
典型的な昭和の日本家屋といった感じで、どこか祖父母の家を思い起こさせるような落ち着いた佇まいだった。
「何もないけど、ゆっくりしていってね。うちはね母と二人暮らしなの。ここは母の実家になるんだけど、私が中学に上がる頃、祖父母が相次いで亡くなって、とうとう二人になっちゃったのよね。父はね、いるにはいるのよ。でも、別の家庭があって……。つまり、うちの両親は離婚してるってわけ。まあそんなこんなで私の自己紹介は終わり」
両親の離婚をさらりと言ってのける水田が、手早くお茶を淹れて沙紀の前に差し出す。
台所横の和室に置かれた座卓に、沙紀と水田は向かい合って座っていた。
「相崎さん。今回は嫌な思いばかりさせてごめんね。あなたをソロに推薦すれば、小笠原先輩が不機嫌になるのはある程度は予想してたんだけど、まさかあそこまでとは思わなかったから」
「あ、はい……。あたしも、もうどうしたらいいのか」
「というか、篤也があなたを特別視してるって誤解してるのがそもそもの始まりなんだけどね。あっ、でもね、これも一概に否定できないのが苦しいところ。先週、篤也に言われたでしょ? あいつちゃんと気持ちを伝えられたのかしら」
沙紀はもうすっかり水田のペースに乗せられていた。
やはり気を利かせてあの場から消えた水田は、先週の思いがけない部長の告白の首謀者だったと言うわけだ。
水田は星川の友人として一肌脱いだということなのだろう。
でも……。もちろんいくら尊敬する先輩の申し出とはいえ、応えられないこともある。
さっきの小笠原の発言で、すべてが明らかになったはずだ。
「あのう……。あたしにはもったいないくらい光栄なお話だったんですけど……」
「カレシがいるから無理、ってことよね。篤也も私も、あなたに付き合ってる人がいるってわかってたら先週みたいなことにはならなかったんだけど。こればっかりはね。どうしようもないわね」
「は、はい。すみません……」
「あら、謝らないで。篤也もこれであきらめがついたはずよ。あのね、篤也ってああ見えて、実は今まで女の人と付き合ったことがないの」
相崎さん、あなたもどうぞ……と目の前のお茶を勧めつつも、水田はとんでもないことを話し始める。
「そ、そうなんですか? あんなにモテるのに……」
とんでもないカミングアウトに一瞬たじろぐ。
あのようなカリスマ性を持った完璧な星川先輩の隠された驚愕の事実に耳を疑った。
「ふふふ。意外でしょ? だからあなたに興味を持ち始めたとき、私、正直ほっとしたの」
「どうしてですか? 」
沙紀は星川の恋愛がどうして水田に関係あるのかと不思議に思い始めていたのだ。
ただ、この二人は誰がどう見ても恋人同士にしか見えないくら仲睦まじい。
どちらかが歩み寄れば、すぐにでもカップル誕生となりそうなくらい近しい間柄に見える。
なのに、そうはならずに水田が星川の恋愛を後押ししているのだ。
「どうしてって……。それは。篤也にいい恋愛をして欲しいから。昔のことを引き摺って、恋愛に臆病になっているとしたら、それって、悲しいでしょ? 」
沙紀はますますわけがわからなくなっていた。
誰とも付き合ったことがない星川がどうして過去を引き摺る必要があるのだろう。
もしかして、失恋の痛手を負っているのだとしたら……。
「過去に何かがあったんですね。もしかして、失恋……とかですか? でも、あの部長に限ってありえませんよ。そんなの考えられない」
沙紀はつい先日自分も部長を振っておきながら、ぬけぬけとそんなことを言う。
もちろん、その矛盾に気付いてはいたが、もしその相手がフリーであるならば、断る理由などあるのだろうか。
「ふふふ。そうね。相崎さんの言うとおりだわ。彼もまさか振られると思ってなかったみたいで、すごく落ち込んで、もう手が付けられなくて……」
「でも、高校ではそんな風に見えなかったですけど」
「あの頃はもう落ち着いていたから。あれはね、確か篤也が中二の時だったと思う」
「じゃあ、水田先輩はその時も星川先輩を支えていたんですね」
「……どうかな? 私もまだ中一だし、自分のことで精一杯の年頃でしょ? 今までで、一番篤也と疎遠になってた時期かも……」
水田は静かにお茶を一口飲み、遠くを見る目で何かを思い出しているようだった。