122 仕返し
「相崎さん、いい調子じゃない」
最前列に陣取り、相変わらず頼まれもしない星川のアシスタントを買って出ている小笠原が、沙紀の横に立ちにこやかにそんなことを言う。
水田も驚いたのだろう。ピアノを弾く手を止めて、怪訝そうに小笠原を伺い見る。
「あら、水田さん。止めないで続けて。ふふふ。もちろん、あたしならそのあたりの表現はもう少し抑揚をつけて、はっきりと歌うんだけど」
「あ、はい。わかりました。水田先輩、もう一度お願いします」
沙紀は小笠原の指摘に一理あると感じていたので、すかさずやり直しを試みるのだが。
「あら、別にいいのよ。そのまま続けてくれたら。ダメだしするつもりはないから。あくまでもあたしのやり方を言っただけ。相崎さんはあなたなりの歌い方でいいのよ。二回目の練習でここまで歌えたら、まずは合格ね。いいと思うわ」
「はい、ありがとうございます」
すっかり小笠原のペースに押され始める。
「でも気を抜かないで。家でもしっかり練習しておいてね。だってあなたは今はもう、合唱の世界からは退いているんでしょ? 教育学部の授業くらいでは歌をやってるうちには入らないし。あなたの出来次第で、OB全員の実力が問われるんだから。責任重大よ。いいわね、相崎さん」
「は、はい」
小笠原の横槍に、せっかく浮上し始めていた沙紀のやる気が見事に削がれる。
褒められているのか注意を受けているのか全くわからなくなってくる。
彼女の思いつきに振り回されるのは、高校生のあの頃と何一つ変わらない。
それにしても不可解だ。
沙紀は小笠原の得体の知れない不気味な笑顔に、やはりまどかの言うことが正しかったのかもしれないと、不安に駆りたてられる。
「そうそう、あなたのカレシってピアノ弾きだったわよね。カレに伴奏してもらって練習すればバッチリなんじゃない? 」
「え? あの……」
この人は何を言い出すのだろう。
沙紀は急激に身体が強張って行くのを感じていた。
「何をそんなに怯えているの? ねえ、相崎さん、ちゃんと聞いてる? 」
「はい……」
「えっと、確か吉野君……だったかしら。サッカー部で人気者だった子よね。あの子なら水田さんよりうまく弾けるし、ちょうどいいじゃない。ねえ、相崎さん! 」
水田が、えっ? と言うように沙紀を見る。
そして小笠原の必要以上に大きな声に、ピアノの近くにいた何人かのOBが反応し、そこには星川の視線も含まれていた。
「葉山、ちょっと待ってくれ……」
そう言って、星川が葉山との話を中断して沙紀のそばにやって来た。
「相崎。今、小笠原が吉野って言わなかったか? 」
星川は沙紀をじっと真っ直ぐに見据えて、とんでもないことを訊ねてくる。
このことは、今の星川には絶対に知られたくないことだ。
でも嘘はつけない。
小笠原のどこか勝ち誇ったようなまなざしに、なすすべもない。
「……はい」
「あいつが相崎の彼氏なのか? 」
「そ、そうです」
沙紀は何も考えられないまま、ただ機械的に返事をすることしかできない。
「やつ……あ、いや、吉野はまだピアノをやってるのか? 」
星川はここで何を聞き出そうとしているのか。
休憩中とはいえ何人かのギャラリーが注目する中、まさか、先週の交際の申し込みを蒸し返すことはないとは思うが、沙紀は極度の緊張感に見舞われているためか、星川の無表情な顔つきの裏側を読み取ることが出来なかった。
沙紀は視線を泳がせたまま、なんとか返事をする。
「は、はい。彼はその、ピアノを続けています」
「音大に行ったのか? 」
「いいえ」
「じゃあどこに? 」
「あ、あの。あたしと同じ教育大です」
「ならば、音楽専攻か? 」
星川は少しも表情を変えることなく、矢継ぎ早に質問を続ける。
「いいえ、違います。小学校課程です」
「……そうか。いろいろ聞いて悪かった。小学校の教員志望か……。吉野ならピアノで身を立てることも可能だろうに」
沙紀は何を言われるのかと生きた心地がしなかったが、星川が康太のピアノのことのみに焦点を当ててくれたお蔭で最悪の状況は避けられたと、ほっとするのも束の間、小笠原が口の端を上げながら二人の間に割って入ってくる。
「星川君。何をそんなにムキになってるのかしら。相崎さんのカレシがそんなに気になる? そりゃあそうよね。相崎さんは元部長の秘蔵っ子だものね。目に入れても痛くないほどの」
星川の鋭い目つきが小笠原を射抜く。
「おお、こわーーっ。星川君ったら、ホント、わかりやすい人。嫉妬してるのよね、この子のカレシに。相崎さんって、声がいいだかどうだか知らないけど、あなたの一存で入部を許して、おまけにいつでも特別扱い。部員はみんな不満に思ってたの、知ってる? 不公平だって。でね、星川君。相崎さんって、こんな純粋そうなかわいい顔してるけど、結構やるのよ。どんな手を使って、あんな人気者のイケメン君をゲットしたのか知らないけど、今日なんて、それも公衆の面前で、カレシの車の中でピッタリ寄り添ってキス……」
「や、やめて──っ! 」
沙紀は手で両耳を覆い、叫んだあと、その場にうずくまってしまった。