121 不気味な笑顔
「沙紀。そんなところで何やってんの? 」
自動販売機の前でペットボトルを握り締めたまま呆然とたたずんでいるところを、まどかに見られてしまった。
「で、あの後も変わりない? 先週のあたしのアリバイはうまくいったみたいだね」
「まどかちゃん……」
「もう、沙紀ったら、何ぼんやりしてるの? 吉野に骨抜きにされてるんじゃないってば」
「いや、別にそういうわけじゃ……。先週はどうもありがとう。おかげでホントに助かった。母はまだ信じてくれてるみたいだし」
母親も全く何の疑いもなく信じているというわけではないような気がするが、咎めるようなことは一切言われていない。
沙紀の言うことを充分に尊重してくれている。
それだけに沙紀も、軽はずみな行動には慎重になる。
確かに嘘をついてしまった。
けれど、まだ康太とはギリギリのラインを保っていることだけは胸を張っていられる。
「もう、ほんっとに、沙紀と吉野ったらラブラブなんだもんね。いい加減、いやになっちゃうよ。あの吉野がねえ……。澄ました顔してやることやってんだから。沙紀も幸せ者だね」
「ま、まどかちゃん。勝手に妄想しないでよ。変なことはしてないってば」
「変なこと? それって何? こらこら、いくらあたしがまだフリーで彼氏がいないからって、みくびらないで。その辺のことは沙紀より詳しいつもりだから」
「うん、それはわかってる」
恋愛の機微に対しては、まどかの方がずっと詳しいし、他者の相談にも的確なアドバイスをしているのは認める。
「付き合ってる二人なら、何があってもおかしくないんだから。それが普通だし、あたりまえってこと。二人で旅に出て何もないとか、絶対に信じないからね」
「いや、でも、本当に……」
「ほらほら、またそんなこと言っちゃって。一緒にお泊りしたんでしょ? 」
「まあ、それは……。車内泊というか、うたた寝というか……」
「何、それ。マジで? 」
「うん」
「信じられない。何やってんのさ。わざわざアリバイまで協力してんのに、ホテルにも行かないなんて! 」
「ま、まどかちゃん。ちょっと声、押さえて」
思わず自動販売機の周辺をきょろきょろと見回してしまう。
ホテルとか大きな声で言わないで欲しい。誤解されるではないか。
「あ、でも……」
でも、行った。ホテルには確かに行ったのだ。
「でも何さ。んん? ちょちょちょっと。沙紀。やっぱ、何か隠してる」
「あの……。行ったよ。ホテルも……」
「そうこなくちゃ! で、どうだった、彼は優しくしてくれた? そりゃあそうだよね。愛し合う二人がやることと言えば、あれしか……」
「だからまどかちゃん。そうじゃないってば。そりゃあ、そんなことも、今までに全くないとは言えないけど」
「ふむふむ、それで」
「でもね、本当に今回ばかりは何もないって。睡眠不足のまま運転し続けた彼と一緒に、二人してバタンキュー。それだけ」
「ホントに? なんかつまんない。それって、あたしのアリバイのただの無駄遣いじゃん」
「期待に添えなくて、ごめんね……まどかちゃん」
「はいはい。わかりました。で、話は戻るけど。ここで何だって、もの悲しそうに突っ立てるのさ? 」
「……それがね、変なの」
「はあ? 何が変なの? 」
「小笠原先輩なんだけど……。前のこと謝ってた」
「前のことって、あのソロパートを勝手に決めたって、あれ? 」
「うん。それで、あたしがさっき康太にここまで送ってもらったのを見られてしまって。そのことでどういうわけか小笠原先輩、機嫌がいいんだ。やっぱ変だよね? 」
「何それ。小笠原先輩って意味わかんない。にしても康太って呼び捨てなんだ。オアツイことで」
「だ、だって。康太がそう言えって……」
「はいはい。……とにかく沙紀と吉野が付き合ってるのが小笠原先輩にバレたってことだよね? あんた達、世間には付き合ってるの内緒にしてるんでしょ? いいの? 」
まどかは手で顔のあたりを扇ぎながら、やってられないとでも言うように、肩で沙紀の腕を突く。
「そりゃあ、あんまりよくないけど……。でも小笠原先輩はその点、無害だと思うんだ。だって、家だって遠いし、学年も違うし。それにあたしたちのことを言いふらしたって何の得にもならないでしょ? 」
「まあそうだね。でもさ、何てったって小笠原先輩だよ? 何かウラがあるかもしれないから気をつけた方がいいって。沙紀は昔っからあの人に目のかたきにされてたからね。軽く信じちゃわない方がいいかも」
「うん、わかった。気をつける。でもね、大丈夫なような気もするんだ。めっちゃ笑ってたし」
「小笠原先輩の不気味な笑いほど怖いものはないと思うけどね」
「んもう、まどかちゃんったら。じゃあ、そろそろホールに行こっか。あたしたちが一番下っ端なんだから、率先して準備を手伝わないとね」
沙紀は、まだ納得していないまどかを伴って、練習会場に向った。
ブランクがあると言っても、そこは合唱コンクール全国大会出場経験者も多い北高音楽部のOBだ。
すっかり当時の勘を取り戻し、現役高校生のハーモニーに負けず劣らず申し分のない歌声を響かせ始めていた。
ソロ部分では、星川の的確な指導が沙紀に対して行なわれ、そこには先週のわだかまりなど微塵も感じられなかった。
そこはただ純粋に音楽を作り上げていく課程での関わりであって、個人的な感情はいっさい交錯しない世界だ。
先週の車の中での出来事など、まるで何もなかったかのようにいつもの星川スタイルで練習が進んでいく。
沙紀はこれでよかったのだと、少しだけ肩の荷が下りた気がしていた。
休憩になり、ソロパートの音程が不確かな部分を確認するために、沙紀はピアノの前の水田の所に足を運んだ。
星川も一瞬沙紀の方をチラッと見たが葉山が男性パートの質問に来ていたため、幸い沙紀の方に寄って来ることはなかった。
なぜかその状況に安堵した沙紀は、水田に音をとってもらいながら、部分練習を繰り返し行なっていた。