120 見ちゃったわ
「康太、送ってくれてありがと。ここでいいよ。居酒屋のバイトがんばってね」
「ああ。今夜は閉店までのシフトだから迎えに行けないけど……」
康太は話の途中で口をつぐむ。
でも沙紀には彼が言いたかった言葉が手に取るようにわかる。
自分は迎えに行けないが、くれぐれもあいつには気をつけろ……とそう言いたいのだ。
つまり、星川には必要以上にかかわるなと、彼の目が訴えている。
もちろん沙紀も星川に家まで送ってもらうつもりなどこれっぽっちもないのだが、それ以前に星川とて、交際の申し込みを断られた後輩にそれ以上かかわりたくないに決まっている。
沙紀は一抹の気まずさを抱えながらも、もうこれ以上の星川との個人的な接触はありえないと結論付けていたのだ。
「大丈夫。まどかちゃんも葉山君も一緒だし。じゃあね」
「ああ。なあ、沙紀……」
康太は助手席の方に身体を傾け、沙紀の頬に突然口付けてきた。
あまりに急な出来事に、沙紀は驚きのあまり目をぱちくりと見開く。
そして恐る恐るあたりを見回した。いくら車の中だとはいえ、真昼間でおまけに四方八方ガラス張りの外から丸見え状態の車内で、それはないだろうと怒りがふつふつと込み上げてくる。
誰かに見られていたらどうしようと、恥ずかしさで心臓が爆発寸前だ。
「もう、康太ったら! 」
沙紀は真っ赤な顔をしながら頬をふくらませ、一応の抵抗を試みる。
そして市民センターの前でさっさと車を降りると、不機嫌そうにそっぽを向きながらも、結局康太の姿が見えなくなるまでそこで見送っているのだ。
康太との思いがけない朝日を見るドライブ旅行から一週間。
勇気を奮い立たせて入ったホテルでは不覚にも死んだように眠ってしまい、思いを果たせなかったと激しく落ち込んでいた彼も、ようやくいつもの元気を取り戻し、寸暇を惜しんで沙紀の送り迎えに勤しんでいた。
もう子どもじゃないんだから一人で大丈夫だと、やんわりと彼の送り迎えを拒否しても、すぐさま却下される。
そこまで信用されていないのかと悲しくなるが、すでに、不安要素を提供してしまったのだからこれも仕方ない。
沙紀はこの際、変な意地を張るのは辞めにして、康太の気持ちをありがたく受け入れようと決めたのだ。
もちろん、康太との関係が両親にバレないように細心の注意を払うのも忘れずに。
沙紀は北高音楽部OBの練習会場に入る前にのどを潤すため、ミネラルウォーターを買おうとロビーの自動販売機のところに立ち寄った。
お気に入りの商品のボタンを押し、取り出し口に手を伸ばしたその時だった。
「相崎……さん」
よく知っている声が背後で聞こえる。
沙紀は転がり落ちてきたペットボトルを手にして、振り返った。
「お、小笠原先輩! 」
「何もそんなに驚かなくてもいいじゃない」
「先輩、こ、こんにちは。先輩は何を飲まれますか? 」
沙紀は小笠原が飲み物を買いに来たのだと思い、怯えながらも後輩らしくお伺いを立てる。
「あたしはいいわ。ちゃんとスーパーで安いのを買ってきたから。それより、相崎さん。あたし、見ちゃったわ」
小笠原はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべてそう言った。
「え? 何のことでしょうか」
沙紀はわけがわからず、きょとんとしている。
小笠原はいったい何を見たというのだろうか。
「ふふっ。あなたのカレよ。さっき車でここまで送ってもらってたでしょ? あたしは今日、原付で来たの。駐輪場でヘルメットをはずしていたら、繁みのすぐ向こう側に車が止まって……。相崎さん、あなたが降りてきたってわけ」
「あっ……」
「あなた、ちゃんとカレシがいるんじゃない。なんで言ってくれなかったの? 教えてくれてもいいじゃない。長いんでしょ? あの子と」
沙紀の脳裏にさっきの康太のキスがよぎる。
まさか、それも見られてた?
「あ、いえ、その……。彼は、ただの同級生で」
「ふーーん。ただの同級生と公衆の面前でキスするんだ。へえ、そうなんだ。いい度胸してるわね」
「あ、いや、それは……」
「あの子、確かサッカー部で、北高じゃかなりの有名人だったんじゃない? それにピアノも弾いてたわよね。部長が言ってたわ。同年代であそこまでの弾き手には今まで会ったことがないって」
もう弁明の余地もない。沙紀は力なく項垂れる。
「す、すみません。彼とは、その、先輩のおっしゃるとおり、付き合っています」
小笠原の目に見えない威圧感に圧倒されて、意味もなく謝ってしまう。
彼女に詫びる必要などどこにもないというのに。
「やっぱりね。ああ、別にあたし、あなた達の邪魔をしようとかは思ってないから。いいんじゃないの、もう大学生なんだし。それと先週は取り乱しちゃってごめんなさいね。だって、あまりにも一方的なソロパートの選考だったから……。あたしがみんなの代弁者になっただけのこと。気にしないでね。そうか……」
……そうっだったのね。ふふふふ。あたしったら、何勘違いしてたんだろ……と先日とは打って変わって不気味なほど陽気な笑顔を振りまいて、なにやらぶつぶつ言いながらその場から去って行く小笠原に、沙紀はただただ唖然とするばかりだった。