10 合図
沙紀が受験を予定していた中学校に康太も受験することが決まっていた。
この地域では一番人気の中高一貫校で、無宗教、男女共学、トップの県立高校を上回る偏差値、電車で三十分以内の通学時間……と翠台の子ども達に打ってつけの教育環境がますます人気をうなぎのぼりにさせていた。
クラスメイトにあのように噂されてまで康太と同じ中学に進学するなど、その時の沙紀にはもう考えられないことだった。
これ以上康太と一緒の道を歩みたくないと自分なりに考えての結果だったのだ。
そして沙紀は地元の公立中学に、康太は私立中学にとそれぞれの道を歩むことになったのである。
私立難関校に見事合格した康太は、学生生活を謳歌している……はずなのだけれど、すべてにおいて満足しているとは到底言い難い状況だった。
サッカーにのめり込んでいた小学校時代をなつかしみ、もし沙紀と同じ地元の公立中学に行っていたらもっとサッカー三昧な楽しい日々を送れたのではないかなどと口にすることもあった。
今も形だけはサッカー部に所属しているが、練習も少なく対外試合に至っては、無いに等しいとこぼす。
確かに勉強に対する環境はこれ以上ないというほど整っている学校ではあるが、そこで過ごした二年と四ヵ月は必ずしも康太の思っていた中学生活ではなかったようだ。
今でも彼と交流のある小学校時代のクラスメイトの伊太郎は、サッカー部で大きな大会への出場も果たし高校からの引き合いも来ているという。
あのお調子者で喧嘩っ早い伊太郎の変貌ぶりは、沙紀にとっては七不思議のひとつでもあった。
けれども康太の学校がたとえ部活が盛んな中学ではないにしろ、高校受験をすることなく進学の切符を手にしている彼がうらやましくもあった。
一時の感情で自分から辞めてしまった中学受験だったが、後悔しても時は戻らない。
タイムマシンがまだこの世の中には存在していないことをこれほど残念に思ったことはない。
陸上部に入ってインターハイを目指したいと広大な野望を抱いている沙紀は、全国大会常連の運動部をたくさん抱える伝統ある公立校を狙っていた。
その高校に入学するためには、この受験戦争を勝ち抜かなければならない。
暑くても寒くても否応なしに入試の日はやってくる。
沙紀は机の上に広げている問題集が一向に進まないことに頭を痛めていた。
どうしてもわからない難問が、沙紀の勉強意欲をますます低下させていくのだ。
暑さもピークに達し、思考力そのものも停止している状況では尚のこと、何か打開案はないかと思い悩んだ結果、嫌がられるのは覚悟の上で、昔よくやった合図を隣の真面目少年に送ってみるのはどうだろうと思いいたる。
蝉取り用の柄の長い虫取り網で、康太の部屋の窓をリズムよく叩くのだ。
しかしあまり大きな音だと弟の翔太がおもしろがって駆け寄って来るので、あくまでも控えめにというのが重要なポイントになる。
マンガでよくあるように屋根伝いに行き来するなんてことは、家の構造上不可能だ。
そんな都合のいいことが現実世界で起こることはまれで、康太の部屋の窓の下には少しだけ屋根があるが、沙紀の部屋の窓の下は一直線に一階の地面に繋がっているため足場がない。
いくら運動神経が発達している沙紀でも、窓から窓へ飛び移ることは危険極まりない行為だと本能的に察知していた。それであみ出したのがこのやり方だ。
沙紀は窓の花置き台の踊り場に身を乗り出し、柵を握って、網を持った片手を思いっきり伸ばし、康太の部屋の窓をコツコツと叩いた。
閉まっていた窓がいきなり大きく開けられると、案の定、いかにも面倒くさそうな表情を前面に押し出した康太がさもダルそうに口を開く。
「なんだよ、言っておくけど遊んでやる暇はないからな」
本当に久しぶりの合図だったのに、開口一番がこの言い方だ。
カチンと来た沙紀は売られたケンカは買ってやろうじゃないのと言わんばかりににらみ返す。
春江の教えを守って女の子らしく上品に頼もうと思っていたのも瞬時に撤回して、戦闘モード全開で康太に挑む。
「はあ? んなわけないじゃん! あたし、これでも受験生なんだからね! 勉強で大忙しなんだよ! 」
「そうですか、では……」
と言って窓を閉めかける康太に危機感を抱いた沙紀が急に態度を軟化させた。
「ちょちょちょちょい待ち! こんな言い合いしてる場合じゃないんだってば。ねえ、康太さま。数学ピンチなの! ヘルプミー! お願い! 教えてーー! 」
沙紀は顔の前に高々と手を合わせて、拝みこむようにして康太に懇願してみる。
「ったくめんどくせーな。はいはい、わかったよ。じゃーその問題見せて」
沙紀は康太の気が変わらないうちにと、素早く虫取り網のネット部分にしるしを入れた問題集を入れると、器用にひょいっと向こうの窓の中に押し込んだ。昔はお菓子のやりとりをするためにこの手段をよく使ったのだが……。
康太はパラパラと問題集をめくり、沙紀のつけたしるしの箇所を見つけるや否や、フフンと鼻を鳴らして、楽勝、と言い残し、無常にもパシャッと窓を閉めてしまった。
この作戦、一見成功したかのように思えるがそうじゃなかったことにはたと気付く。
あのひんやりしたエアコンの効いた部屋に招かれなかったことが残念で仕方ないのだ。
が、それより何より、難解問題集の解決の糸口が見つかる方が大事ではないかと思いなおす。
沙紀はさっきよりももっと超高速で下敷きをパタパタさせ生ぬるい風を循環させながら返答を待った。