117 アリバイ要請
沙紀は康太の言動の意味が理解できずに、遠慮がちに彼の顔を覗きこむ。
「こうちゃん。怒ってる? やっぱり怒ってるよね。でも隠し通せることじゃないし、正直に全部話しただけなのに……。本当にさっき言ったのがすべてなんだよ。先輩には何もされてないし」
「そんなの、あたりまえだろ。もし何かされてたら、その時は身体張って、あいつのところに乗り込むだけだ」
「こ、こうちゃん! 」
彼は本気だ。
まさかこの時代に一騎打ちだなんて、想像しただけでも怖くなる。
「沙紀。前から言おうと思っていたんだけど。その、こうちゃん、っての、なんとかならないのか? 俺はもう子どもじゃない。今度、葉山や井原の前で言ってみろ、即、離婚する」
り、離婚?
沙紀は康太のますます意味不明な会話に思考が混乱を極める。
まだ結婚もしていないのに、ひとっ飛びに離婚するらしい。
摩訶不思議な状況だが、なんとなく彼の言いたいことはわかるような気がする。
今の康太には何を言ってもだめなのだろう。
口を開けば一から十まですべて否定されそうな勢いだ。
おまけに、今まで一度だって名まえの呼び方で咎められたことなどないというのに、どうして今日に限ってそんなことを言うのだろう。
子どもの頃からずっと馴染んできた呼び方を今さら変えるなんて、簡単そうで、なかなかそうはいかないものなのだ。
両親のことを、パパ、ママ、といまだに呼んでいることと同じだ。
友だちに知られると恥ずかしいので何度かお父さんお母さんと呼ぼうと努力したのだが、うまくいかない。
ではいったい、彼のことを他にどう呼べと言うのか。
沙紀はいつになく高圧的な康太になすすべもなく、やり切れない思いでいっぱいになる。
「じゃあ、何て呼べばいいの? ねえ、こう……」
「康太でいい。気持ち悪いから、さんづけは勘弁」
「ええ? 呼び捨て? む、無理。そんなの無理だよ。でも、あたしもさん付けは、多分苦手だけど。……康太……さん。ぎゃーーっ! やっぱ無理無理! こう……さん。ひゃーーーー。これも、やっぱ無理! 」
ああああ。どうすればいいのか。
夏子先生は康太の父親のことを慶太さん、と呼んでいる。
なので、本当は康太さんと呼ぶのが理想なのだけれど、出来ないものは出来ない。
それに彼もそれは望んでいない。
では、どのように呼べばいいのだろう。
「……おまえ、うるさい。もう、どうでもいいから、早く家に電話しろ。バレたら俺が責任とる」
沙紀はまどかにアリバイの協力を要請し、ためらいながらも家に外泊する旨を伝えた。
前にも親に無断で泊まったとはいえ、それは祖父母の家。
バレたところで、康太への疑惑は最小限ですむ。
でも今回は……。そうはいかない。
母の声はいつものように明るく、疑っているそぶりは全くない。
ますます罪悪感がつのり、声は震えるし支離滅裂な内容になるしで、さんざんだった。
康太がいったい何を考えているのかまだ掴めないまま、沙紀は前を走る車のテールランプをじっと見ていた。
……背中が痛い。首も後ろの辺りが重い。
沙紀は、無意識に手を上に伸ばして、毎朝ベッドの上でやるように身体を伸ばす。
「んんん……っ! え? 」
沙紀の視界に飛び込んできたのは……。
暗がりの中に浮かぶ康太の寝顔だった。
「な、な、な、なんでっ? 」
周りは暗い。夜だ。そして見上げた窓の外には街灯と、自動販売機の明かりが見える。
沙紀はやっと自分のおかれている状況が理解できた。
ここは車の中。そして、高速のパーキングに、車が停まっているのだ。
倒しているシートから身体を起こし、デジタル時計を見る。
なんと、午前四時。沙紀は慌てて隣で横になる康太の名を呼んだ。
「こう……」
と言いかけて口をつぐむ。
確か眠ってしまう少し前に康太に言われたことをふと思い出したのだ。
沙紀は勇気を奮い起こして彼を呼んでみることにした。
きっと、すぐには起きない。だから、今なら言っても大丈夫だと、今までと違う呼び名を口にする。
最初は小さく。そして徐々にはっきりと。
「こう……た。こうた……。康太」
すると、康太の目がパチッと見開いて沙紀と視線が絡み合う。
彼女の肩に手を掛け、康太はゆっくりと起き上がった。
「なあ沙紀。今、康太って言ってくれた? 」
「う、うん」
沙紀は康太と目を合わさないように左側の窓の方に顔をそむける。
「おい、こっち向けよ」
「い、いやだ。だって恥ずかしいんだもん」
「はは。これからもずっとそう呼んでくれよ。俺のこと呼び捨てに出来るのは親と雅人兄さんとサッカー仲間と。そして沙紀だけだから。なあ、もう一回呼んで」
「えーーー。やだよ」
「なんでだよ。ねえ、もう一回だけ」
「…………こうた…………」
反対側を向いたまま、蚊の鳴くような小さい声でつぶやく。
「いいなあ。これからは、それでよろしく」