116 嫉妬
「さき……」
コンビニの雑誌のコーナーで本を手に取ることもなく、ただ立ちすくんでいるだけの沙紀の肩に、温かい物が触れる。
康太の手のひらだった。
「待たせてごめん。帰ろう」
康太に手を引かれて、再び駐車場に戻る。
あたりを見回したが、すでに星川の車はどこにも見当たらない。
沙紀は星川を見送らなかったことに今ごろになって気付く。
あの時は気が動転していて、とにかくコンビニの中に入ろうと、それしか考えてなかった。
個人的な付き合いを断ったとはいえ、食事までご馳走になっておきながら自分の行いが人としてどうなのかと、激しく自己嫌悪に陥る。
黙り込んだままいつもの馴染んだ康太の車に乗り込み、シートベルトを左肩から右下にすべり下ろした。
「どうした? 元気がないな」
「あ、別に。大丈夫だよ」
「電話のこと気にしてるのか? 俺もムキになって悪かったと思ってる。何もないとわかっていても、嫌なんだよ。星川に沙紀を預けるのは」
「こうちゃん……」
沙紀は康太の直感めいたその言葉に、身震いする。
もし、あのまま康太の迎えを拒んで、星川に送ってもらっていたとしたら……。
あんな風に、きっぱりと断れなかったかもしれないのだ。
それこそ取り返しのつかないことになっていた可能性もある。
「さっき、ここに入ってくる時、星川の車とすれ違った。黒いスポーツカーだろ? 」
沙紀はドキッとした。
星川の車を出るのがもう少し遅ければ、康太は今以上に嫌悪感を露わにしていたかもしれない。
それに、沙紀の彼氏が康太であると星川にバレテしまうところだったのだ。
「じゃあ先輩はこうちゃんに会わないで帰っちゃったんだね」
「向こうは多分、俺のこと気付いてないよ。で、どうだった。星川はさっきの電話の相手が俺だってわかってた? 」
沙紀はわかってないよと首を横に振る。
星川と康太の接点といえば、高校に入学したばかりのあのピアノ事件の時しか心当たりがない。
多分気付いてないだろう。
「そうか。なら、やっぱり木下教授も息子には俺のこと何も言ってないんだな。まあ当分はその方がやりやすいかもな」
ハンドルを握った康太は駐車場の出口で左右を確認し、左折して大通りに車を進める。
「こうちゃん。ずっと気になってたんだけど。なんであたしが星川部長と一緒にいるってわかったの? 」
沙紀は自分の行動の一部始終を康太に監視されていたような妄想に囚われていたのだ。
普段なら逆に大歓迎なのだが、今夜はそうもいかない。
さっきの予想だにしなかった星川の交際の申し込みがあるだけに、康太の全てを見透かしたような態度が気になって仕方ないのだ。
「ええ? そんなもん、俺は沙紀のことなら何でもわかる……って、言いたいところだけど。何度電話しても連絡取れないから、葉山に訊いたんだよ」
「葉山君に? 」
「ああ、そうだ。そしたら星川にさらわれて行ったって言うし。俺が焦るのを面白がっているのは見え見えだったけどな。沙紀の連絡があるまで、家で雅人兄さんに当り散らしていたよ」
「そ、そうだったんだ。本当にゴメンね。なんかさ、あたしが合唱のソロを引き受けたお礼とかいって、水田先輩と星川先輩の二人でご馳走してくれたんだ」
「ふーん。なるほどね。でもそのわりに、なんでそんなに暗いわけ? うまいもん食わしてやる代わりに、この先、地獄のレッスンが待ってるとか言われたのか? 」
「それなら……まだいい。その方が何倍もいいよ」
沙紀は今までに何度か同級生や先輩に告白めいたことをされた時、包み隠さず康太に相談してきた。
そして相手に合った方法で、決して康太の名を出すことなく、後腐れのない断り方を実践してきたのだ。
でも、今回は果たして正直に言うべきなのかどうか、まだ迷っていた。
相手がとてつもなく大物だというのもあるが、これまでになく康太が相手を敵視しているので、口にしたら最後、大暴れしそうな気配が大いに漂っているからだ。
「なあ沙紀。なんかおかしいぞ。隠し事は身体に悪い。何でも言っちまえ」
康太は川沿いの交通量の少ない道で路肩に車を寄せ、ハザードを点滅させる。
「ほら、沙紀。元気出せよ」
停車した車の中で康太が、項垂れる沙紀の髪をそっと撫でてくれる。
もうこれ以上黙っていることは無理だ。
「こうちゃん……。あのね。怒らないで聞いてね。もしかしたらあたしの思い違いかもしれないし、星川先輩は深い意味はなくそう言ったのかもしれないし」
沙紀は、心配そうに覗きこむ康太の目を見てゆっくり話し始めた。
「また会って欲しいって言われた。練習以外の時も、二人で会って欲しいって。だから水田先輩が気を利かせて先に帰ったって……」
康太の目が次第に鋭く光り始める。
「なんだよ、それ……。おまえ、あいつに告られたのか? 」
「ち、違うよ。そんなんじゃないって。ただ、会って欲しいって言われただけ。だからちゃんと断ったよ。付き合ってる人がいるからそれは無理だって! 」
急に前を向いた康太は、ハンドルを右に切ると、Uターンして乱暴に車を発進させる。
それは、家の方向ではない。全く反対方向だ。
この川沿いの道は沙紀もよく知っている道なので間違いない。
「こ、こうちゃん! いったいどこに行くの? もう夜中だよ? 」
「はあ? 夜中がどうした。井原の家に泊めてもらうとでも言えよ。そう言って家に電話しろ。友達なんだろ? アリバイ作ってもらえば? 」
冷ややかにそんな言葉を発する康太の横顔は、沙紀が今まで見たことのないような、恐ろしい形相を浮かび上がらせていた。