115 コーヒーの香り
沙紀は勧められるがままに助手席に乗り込むと、店からすぐの通りにあるコンビニに連れて行かれた。
ここで康太の車が来るのを待つのだ。
星川が言うには、翠台からここまでは三十分くらいはかかるらしい。
康太との電話を切ってからまだ五分も経っていない。
まだしばらくは星川とこの状態で過ごすのかと思うと、沙紀の心は重く沈んでいくようだった。
星川は駐車場に車を止めるや否や車を降り、コンビニに入って行く。
静かになった車内に、どこか物悲しいピアノの音色が沙紀の耳に届く。
グノシエンヌだ。
つい先日、康太が弾いているのを聴いたばかりだったので、少しばかり気まずい。
そして淹れ立てのコーヒーを両手に持った星川が、そうと感じさせないくらいスマートにドアを開けて、そのうちのひとつを沙紀にはいと言って渡した。
「あ……。ありがとうございます」
「砂糖を少しだけ入れた。それでよかったか? 」
「あ、はい」
助手席に座ったままの沙紀はコーヒーを受け取ると、ひと口飲んだ。
微かに甘い。少しだけ落ち着きを取り戻したような気がした。
沙紀は星川に対して、好きとか嫌いとか、そういった感情を抱いたことはない。
つまり、沙紀にとって星川は、常に雲の上の存在で、そういった個人的感情を抱かせる接点すらなかったと言えばいいだろうか。
だから、今沙紀が感じている緊張感は決して恋愛のそれではなく、尊敬する年長者に対する畏敬の念にも似た類の物であると言い切れる。
けれど……。
先に帰ってしまった水田が過去に言ったことばを、沙紀は早まる心拍数と共に、思い出していた。
星川篤也が沙紀に興味を持っている。
だから、星川を好きな小笠原が自分に辛く当たるのだ……と。
その興味がいったいどんなものであるのかまでは深く考えたことはなかった。
思い当たることといえば、ピアノか歌しかない。
水田が沙紀の歌声を気に入って認めてくれていた。
だとすれば、星川も同じようにこの声に興味を持ってくれているのだとすれば、それはそれで大変光栄なことである、と素直に受け止めることが出来るのだが。
でも、考えたくはないが、もしそれとは違う別の観点で星川が沙紀を見ているのだとしたら……。
そこまで考えて、ないない、絶対ありえない、と大きく横に首を振り、それ以上の思考を無理やり停止してしまうのだ。
さっきまでの店での星川と水田の親密な関係を見る限り、沙紀の懸念は一掃されて、自分がわずかでもありえない妄想を抱いていたことに気恥ずかしさを覚える。
なのに、なのにだ。どうして、水田は帰ってしまったのか。
それも母親に迎えに来てもらうだなんて。
星川と水田の母親は、風の森幼稚園での園長と主任の関係だ。
沙紀が幼稚園に招かれ歌いに行った時も二人はとても信頼し合っていて、仲のいい友人同士のように見えたものだ。
そんな親の公認であれば、星川と水田が付き合うことに何の障害もないように思えるのだが、当人同士は水田が言うとおり、特別な関係ではないということなのだろうか。
信じられないが、そうなのだろう。
でなければ、沙紀を一人残して帰ってしまうはずがない。
気まずい沈黙が続く中、半分くらいコーヒーを飲み終わったあたりで、星川が口を開いた。
「相崎、大学はどうだ? 楽しいか? 」
あまりにも突然の問い掛けに、沙紀は驚きのあまりビクッと震え上がり、隣の星川を恐る恐る見る。
「ははは。えらく緊張してるんだな。別にとって食おうなんて思っちゃいないから。俺ってそんなに怖い? 昔からそうやって、あまりにも怖れられているから、正直悩んでいた時もあった。でも、高校時代は逆にそんな状況を面白がっていたかもしれない。杏子には散々悪党呼ばわりされたけどな」
「そ、そうなんですか。あ、あ、あの。星川部長は、水田先輩とは、その、どういった関係で……」
その瞬間、星川の笑顔が消え、いつもの冷たい視線がフロントガラスの先にあるものを追う。
あまりにも楽しそうに自然な流れで水田の話をするものだから、沙紀はついうっかり口をすべらせてしまったのだ。
聞いてはいけないことだったのだろうか。
沙紀は再び前に向き直り、手元の半分残ったコーヒーのかすかな揺れを手のひらに感じながら、激しく鳴り響く自分の心臓の音だけをじっと聞いていた。
「杏子か……。あいつは、俺がこっちに帰って来た時、初めて仲良くなった友達だ。二歳の時からずっとオヤジの仕事に付き合ってオーストリアのザルツブルグにいたんだ。そして小学校二年生になった時、帰国した」
沙紀は初めて聞く星川の身の上話に静かに聞き入った。
「その時オヤジは一緒にここに戻らずに九州に単身赴任。母親はあのとおり祖母のやっている幼稚園をまかされて、俺は慣れない日本で一人ぼっち。同じように母一人子一人の杏子が、哀れな俺の面倒を見てくれたんだ。年下とは思えないほどのしっかり者でね。で、今に至るというわけだ。だから彼女にはいまだに頭が上がらない。……冷たく突き放された時もあったけど、高校以降は概ね良好な友人関係を築いている。期待に副えなくてすまないね。よく付き合ってるのかと勘違いされるが、はっきり言っておく。相崎が見た目以上でも以下でもない。その証拠に、アイツは気を利かせて先に帰った。以上」
そうですか……って、えっ?
そ、それって。気を利かせたって、どういうこと?
沙紀の心臓は一層激しく鼓動を増す。
そっと覗き見た星川の頬は幾分上気して赤くなっていた。そして沙紀と目が合い……。
「ということだから。これからもこうやって時々俺と会ってもらえるかな。もちろん、合唱の練習以外の時に。だめ? 」
これって……。
沙紀は慌てた。今星川が言ったことをもう一度頭の中で繰り返してみる。
つまり、遠まわしに付き合って欲しいと言われているのだ。
沙紀は突然シートベルトをはずし、コーヒーの香りで満たされた車内で星川を真っ直ぐに見て言った。
「部長。すみません。その……。あたし、あまり周りに知られていないんですけど、付き合っている人がいます。なので、そういったお誘いは無理じゃないかと、そう思うわけです……」
さすがの星川も、沙紀の意思表示に面食らっているようだ。
「そ、そうなのか。そうだよな。相崎ほどの女性に、相手がいない方が不思議だよな。いや、今までそんな噂を聞かなかったし、俺にも脈があるかと思っていたんだが。……わかった、あきらめるよ。無理言って悪かったね」
どこか寂しそうな星川の横顔が沙紀の目に映る。
でもこればかりは同情や尊敬の念で安易に同意できるものではない。
康太一筋の沙紀には、到底無理な話だったのだ。
ジムノペティが、より一層寂し気に二人の空間を漂い流れる。
時計を見ると、もうあれから三十分を過ぎている。
そろそろ康太が着く頃なのかもしれない。
「相崎。もうすぐここに迎えに来るのが君の彼氏なんだろ? じゃあ車から降りて、店に入って待ってろ。あらぬ誤解は避けたほうがいい」
沙紀はコクリと頷き、車を降りた。
まだ頭の中はパニック状態のままだ。
やっとのことで、今夜はありがとうございましたと頭を下げると、星川の車を振り返ることもなく、とぼとぼとコンビニに入って行った。
星川が鳴らしたのだろうか。
短いクラクションの音が沙紀の背中に響き、彼がここから走り去ったのを知った。