111 キスなんかありえない
風が冷たく感じる土曜日の昼下がり、沙紀は大学の図書館で児童心理学に関する本を探したあと、市民センターの中にある多目的ホールに向っていた。
北高合唱部のOBが今週末からここに集まり、現役部員の定期演奏会に出演するための練習が始まるのだ。
大学の教育課程のカリキュラムに声楽の単位が組み込まれているので、最低でも週に一度は声を出している沙紀は、今回の練習は多分楽勝だろうと意気揚々と参加したのだが……。
朝昼晩と、毎日続く猛練習で声を出していた高校時代に比べると、その差は歴然としていて、パートリーダーの水田をも呻らせた透き通るようなソプラノも、今ではすっかりなりをひそめてしまっているのにはたと気付いた。
水田からバトンを引き継いでソプラノのパートリーダーになった沙紀が、高校生活最後の定期演奏会で見事にソロの役割を務め上げ拍手喝采を浴びたのはちょうど十カ月ほど前のことだ。
当時の後輩たちが見守るステージの中で、今のこの情けない歌声を聴かせるわけにはいかない。
今後は康太の家のレッスン室を借りてでも発声練習をしようと堅く決意した。
葉山の指揮と水田のピアノ伴奏で、練習も佳境に入りはじめた頃、突然開いた入り口のドアの所に、歌っている最中のOB達の視線が釘付けになる。
ピシッとアイロンのかかった白いシャツに濃紺のスラックスで現れたその人物は、遅れてすみませんと頭を下げ、早速シャツの袖口のボタンを外し肘の辺りまで捲り上げると、指揮者代理の葉山からタクトを受け取った。
その人物と在学中に関わったことのある学年の人たちだけでなく、かなり年配の世代にも彼の名が轟いているのか、ほう……というため息にも似た感嘆の声があちこちであがる。
もはや誰もが、タクトを持つその人物に羨望の眼差しを向けているのだ。
高校卒業後、一度もOBや在校生の前に姿を見せなかった星川が、今、二年半ぶりに皆の前に立ち、より一層洗練された切れのある立ち居振る舞いで、見る者を圧倒するのだった。
やっと練習が終わったのが夜の九時。
二時から会場を借りていたので、初めから練習に参加している者はもうへとへとだった。
各卒業年次ごとにどこかに夕食でもと、同窓会のような盛り上がりを見せる中、水田が突然ピアノの椅子から立ち上がり、すみませんが……と声を掛けた。
どの顔も、もう練習は終わったはずなのに、今さら何事だと不機嫌さを露わにしている。
星川の補佐は自分しかいないと思い込んでいるのか、彼の上着を恭しく手にして、腰巾着のように星川に張り付いている小笠原までもが、不愉快さを前面に出して水田を睨み付ける。
「皆さんにお伝えしたいことがあります。今回の演目のソロパートを誰にお願いしようかといろいろと迷ったのですが、こちらの一存で決めさせていただきました。今ここでその了承を得たいのですが、よろしいでしょうか」
すると、皆が一斉に水田に注目した。
楽譜に記されていたソロのパートに、やはり誰もが気になっていたのだろう。
「作詞作曲を快く引き受けてくれた君たちに一任しているのだから、私たちが口出しすることはない。どうぞ、決めてくれたまえ。承認しよう」
沙紀の親よりもはるかに年上と思われるOB会長が、よく透る張りのある声で、水田を擁護する。
「では、今回はソプラノを一名推薦いたします」
瞬間、小笠原の顔が輝きを放つ。
小笠原を知っている者ならきっとその変化に気付いたはずだ。
水田の一年先輩であり、星川とは部長副部長の間柄でもあった。
定評のあるソプラノは今も健在だ。
地元の市民合唱団に在籍している小笠原は、自分の名が告げられることを期待しているのだろう。
ところが、そんなことなど気に留める様子もなく、水田が発表を続ける。
「今年の春に卒業したばかりの教育大生、相崎さんにお願いしたいと思います。相崎さん、よろしいでしょうか」
沙紀は、まどかに聞かされて事前に知っていたこととはいえ、この場で改めて名を告げられると、緊張のあまり返事すらままならない。
か細い声で、ようやく、はい……と言うのが関の山だ。
その時、沙紀の目に映ったのは、呆然と立ち尽くす小笠原の姿だった。
そんな小笠原を知ってか知らずか、周りから大きな拍手が沸きあがり、よろしくね、頼んだよ、がんばってと、沙紀は皆から温かい励ましの言葉を掛けられるのだ。
小笠原の異変に気付いたまどかが沙紀のそばに寄ってきて、気にしないでさっさとここを出ようと沙紀の手を引く。
この後食事に行くもよし、帰るもよしと自由解散になったのだが、あっという間にホールから人の姿が消えていた。
出口付近で沙紀はまどかと一緒に葉山を待っていた。
葉山は水田と星川の三人で何やら話しこんでいるのだ。
そして、そこから少し離れたところに無表情な小笠原が、ぽつんと佇んでいるという奇妙な構図が出来上がっている。
沙紀はなるべくそちらを見ないようにして、まどかの話を聞いていた。
「ねえ、沙紀。葉山と三人で何か食べて帰ろうよ」
「うん、そうだね……って、でもあたしが行ったら邪魔じゃない? 」
「んもう。そんなことないってば。沙紀も吉野君も、パスタ屋さんでの鉢合わせ以来、そればっか。ホントに何もないんだって。葉山とはね、フィーリングが合うってだけ。音楽の好みとか、食べ物とかね。だから一緒に出掛けることも多いけど。ホントにそれだけなんだってば。実際、葉山と恋人同士になるとか、キスするとか……って、ないない。絶対にありえないもん。想像することも出来ないし」
まどかが小声であってもそこはしっかりと否定する。