108 浮かれ気分の先には
沙紀は薬指にはめたリングを何度も何度も繰り返し眺めてはにんまりしていた。
それは康太も驚くほどの早さで、八号サイズの沙紀の薬指に納まった。
店に入って五分後には会計も済ませ、そして夕暮れの迫るメイン通りを、こうやって二人並んで歩いているのだ。
「こうちゃん、ありがと。あたし、アクセサリーとかほとんど何も持ってなかったから、すっごく嬉しい。寝る間も惜しんで働いて、あたしのためにこんな素敵なプレゼントしてくれるなんて、ホント、夢みたい」
「そんなにも喜んでもらえるなんて、俺も嬉しいよ」
「こういうシンプルなのが欲しかったんだ。薄くてゴロゴロしないし、ピアノ弾く時も邪魔にならないと思うしね」
「にしても、決めるの早かったよな。店員さんもあわてていたぞ」
「だってえ。あんまり派手なのは好みじゃないし、ぱっと最初に視界に飛び込んできた物が結局最後まで気になってるってこと、今までにもよくあるでしょ。だから、もう迷わないことにしてるの。直感って、信じる価値ありだと思う」
「沙紀らしいよ、まったく……」
「でもね、高校の時、まどかちゃんにもよく言われたんだ。沙紀は潔すぎだって」
「あははは。ホント、その通り。でもな、きっとその指輪を選ぶだろうって、俺も店に入ってすぐに思った」
プラチナベースの幅四ミリほどの薄手のリングは、まるで誂えたかのように沙紀の指にピタッと嵌っていた。
「高校時代は金もなかったし、沙紀に何かプレゼントしたくても買ってやれなかっただろ。俺も念願が叶って満足だよ。でも……。ピアノ弾く時もってことは、ずっとそれ、はめておく気なのか? 」
「うん。そうだよ。何か変? 」
沙紀は康太の言っていることの意味が理解できずにきょとんとしている。
カレシからもらった指輪なんてものは、それこそ肌身離さずずっと身につけておくべき物だと思うのだが。
「いや、その。周りの人にどう説明すんのかなって思って。そのまんまじゃ、いかにもって感じだし、沙紀の両親も、大学の友達も黙っちゃいないと思う」
「あっ、そのこと? なら大丈夫だよ。こうちゃんには悪いけど、パパとママに何か言われたら、バイト代で自分で買ったって言うから。それに普段は右手に付ける様にするからね。あたしの指、左右でサイズも違わないし。大学の友達もみんな自分で買ったファッションリング付けてるから全然問題ないよ」
「そんなものなのか? ならいいけど。でもな、俺、あの時はあせったよ」
「えっ? どの時? 」
沙紀は急に立ち止まり、康太の顔を覗きこむ。
「翔太のとんでもない告白だよ。あいつ、どこまで正気だったのか、俺としてもまだ数々の疑問が残るんだけど」
「ああ、あれね。何言ってるのよ。あんなの冗談に決まってるし。いくらこうちゃんと並ぶくらい背が伸びたって、あたしにはまだ、幼稚園児の翔ちゃんの面影が拭いきれないんだもの。からかわれていたのよ。あたしがあまりにも成長がないから」
と言って、あははと笑い飛ばす。
あの後、滞在中に二,三度顔を合わせたが、それ以上の誘いがあるわけでもなく、小学校時代の友人達と楽しそうに過ごしていた翔太を、沙紀は姉のような立場で微笑ましく見ていたのだ。
「なるほどね。沙紀って、ホントに楽天家だよな。悩みなんて何にもないんだろ? 」
「まあね。でも人並み程度には悩んでいるつもりだよ。ねえねえ、こうちゃん。もしかして弟に嫉妬したなんてことはないよね? 」
「ない、と言いたいところだけど……。俺、マジであいつを殴り飛ばそうかと思った。あいつ絶対俺が沙紀のこと好きだって知ってるよ。それでわざとあんなこと言ったんだ。付き合ってるとまでは知らないとしても、ああやってカマを掛けたんだろうと思う」
「えええ! そうなの? やっぱ、あたしたちのことって、バレバレなのかな? 」
「ん……。どうかな。まあ、俺の気持ちを逆なでする程度の置き土産は十分に残してくれたかな。で、単純な俺は、これ以上他の男に大切なお沙紀ちゃんが狙われるのはごめんだと考えあぐねた結果、指輪を贈ろうと決めたんだ。まあとにかく、それなりの物をプレゼントするつもりだったから、バイトがんばって正解だった、と思ってる」
「じゃあ、この指輪、翔ちゃんにも感謝しなくちゃね」
沙紀はそんな康太の心配もよそに、尚も掌を表裏くるくる返して指輪を確認する。
そして隣に並んで歩いている康太にとびっきりの笑顔を向けた。
「なあ沙紀、そろそろメシでも食いに行かないか? 」
「うん。じゃあ、前から気になってたパスタのお店に行きたい。行列が出来るってテレビで言ってたけど、それでもいい? 」
「いいよ。腹減ってぶっ倒れそうだけど、今日は沙紀にとことん付き合うぞ。何と言ってももうすぐ誕生日なんだし」
「そう来なくちゃ! 」
沙紀は浮き足立つ気持ちを隠そうともせずに、半ば康太の手を引っ張るようにして、ぐんぐん歩いていく。
今春オープンしたばかりのそのイタリアンレストランは、初めての客にもひと目でそことわかるくらいの大行列だった。
家族連れよりも、カップルや一人で来ている人が多いせいか、皆、整然と並んでいる。
この周辺は、その昔、沙紀が康太に初めて好きだと告白された思い出の場所でもある。
今並んでいる路地を真っ直ぐに行ったところが川になっていて、そこを川沿いに東へ歩いていけば、家にたどり着く。
いつもは手を繋ぐことすら慎重になってしまうのだが、今日ばかりは指輪の威力なのか、お互いに大胆になってしまう。
真横を通り抜ける車から身を守るために、康太が肩を抱き寄せてくれる。
そのまま、誰から見ても恋人同士だとわかるくらい密着して、心持ち頬を赤らめながら順番を待っていた。
沙紀はふと誰かに背中を突かれたような気がしたが、肩から腰の辺りに下りてきた康太の手が当たったのかと思い、別段気にも留めなかった。
が……。
「さ、沙紀? あの……。沙紀だよね? 」
遠慮がちに呼ぶ小さな声に、沙紀は康太と共に、ほぼ同時に後ろを振り返った。