9 沙紀の反乱
新しく開通した鉄道もようやく八周年を迎え、年々乗降客も増えている。
沙紀の住んでいる街、翠台の開発もいよいよ終盤に差し掛かり、ニュータウンとしての体裁が整い始めた夏の午後だった。
中学三年生になった沙紀は机に向かい、苦手な数学と格闘していた。
この夏の君達のがんばりが春に最良の結果をもたらすのだ! という塾の講師の熱い叫びが沙紀の頭の中を何度も駆け巡る。
エアコンのない沙紀の部屋はまるで蒸し風呂のようで、赤道直下の熱帯ジャングルの方がまだ過ごしやすいんじゃないかと思わせるくらい熱気が充満していた。
集中力を高めるために濡れタオルで顔を冷やしたりもしてみたが、努力もむなしく暑さは時間とともにエスカレートしていくようだった。
ついに椅子の背もたれに上半身を投げ出し大の字になって、持っていたシャーペンまで放り出してしまった。
「──ったくこの暑さ、なんとかなんないのかよ! いくらうちが貧乏だからってこれはないだろ? 下のリビングのエアコンの下で勉強するしかないか、あ、いや、それはダメだ。ママがうるさすぎる! あああ……明日から昼間は図書館にでも行くか。それとも隣に押しかけようか……」
沙紀はブツブツと悪態をつきながら、あれこれ暑さ対策を練っていた。
隣とはもちろん、康太の家だ。
高校受験を控えたこの夏から、受験が終わるまではピアノのレッスンは休みにしてもらっている。
ただし、毎日一度は自宅のピアノの鍵盤に触れるという夏子先生との約束は守っているのだが。
そんなわけで、レッスンもない今、これまでのように堂々と隣に行けなくなった沙紀は、どんな理由を付けて押しかければいいのかを低下した思考力を必死に回転させて案を練るも、何も思い浮かばない。
それもこれも全部この暑さのせいだ。
全開した窓から隣の家の二階の窓の下にある室外機を見ると、ウーンと唸りをあげながら動いているのがわかる。
つまり康太が部屋にいるということだ。彼も相変わらず真面目に勉強でもやっているのだろう。
にしても冷房なんかガンガン効かせながら優雅に問題を解いているのかと思うとイライラしてくる。
やっぱり適当に理由をつけて敵陣に乗り込もう。と思ったのも束の間、康太の迷惑そうな嫌そうな顔が脳裏をよぎる。
用もないのに来るな、じゃあ、と言って追い払われるのが目に見えている。
沙紀は扇風機の風だけではもの足りず下敷きも使って超高速で扇ぎながら、今から三年前のことをふと思い出して苦笑いをしていた。
あれは確か六年生の一学期の終わり頃だっただろうか。まさしく今日のように暑い日だった。
沙紀が登校して教室に入ると、教室内が妙にざわついているのだ。
ただならぬ空気がそこかしこに漂っているようで、当然のようにいやな予感が沙紀の全身を支配する。
皆の視線が沙紀に注がれる中、そこが諸悪の根源だろうと思われる黒板をそっと振り返って見たのだ。
なんと、そこに書かれていたのは沙紀の名前と、よく知る同級生の名前だった。ご丁寧に、傘の絵まで付いている。そしてその傘のてっぺんには、赤いハートマークも忘れずにのっかっていた。
沙紀は時々康太との関係を噂されていたのは知っているが、そのほとんどが冗談とノリで言われているのもわかっていたので、真に受けることもなく適当にあしらっていた。
今回もその延長線上だと思っていたのだが……。
皆の顔が一様に真剣みを帯び、いつもと違う様子が伝わってくる。
クラスのお調子者の伊太郎が、ニヤニヤしながら沙紀の前に立ちはだかった。
「なあ、相崎。おまえと吉野が結婚してるって噂、本当か? 」
沙紀は耳を疑った。伊太郎の言っていることの意味がわからなかったのだ。
「どういうこと? 」
「だから、おまえと吉野は結婚してるんだろって言ってるんだけど? 」
伊太郎はわざと大きな声でそんなことを話している。
小学生が結婚なんて出来るはずがないのをわかっていてからんでくるのだ。
「このヤロウ……いい加減にしろよ! あたしはまだ六年生だよ。結婚なんて出来るわけねーだろ! 」
黙っていられなくなった沙紀は、鼻息も荒く、乱暴な口調でまくし立てる。
「へぇ。結婚してないんだ。でもな、みんなの噂になってんぞ。吉野の家に行ったらいつもおまえがいるって。六年二組の教室が暑いのも、お前たちのラブラブのせいだって。へっへっへ……」
「なにぃーーーーーっ! 」
今にも伊太郎に掴みかかろうとしている沙紀を青山美ひろがあわてて引き止める。
「沙紀ちゃん、やめて! ケンカはダメだよ。ねえ、落ち着いて! お願い! 」
美ひろの願いも虚しく、沙紀と伊太郎はまさしく取っ組み合いのケンカを始めたのだが、その直後教室に入って来た康太に伊太郎が羽交い絞めにされ、沙紀は美ひろに腕を引っ張られて、乱闘はあっけなく終わりを告げたのだ。
結局、誰が黒板にいたずら書きをしたのかは、わからないままだった。
中学受験を目指していた沙紀は、その日から進学塾へ行くのを辞めた。
そして受験も辞めると両親に宣言したのだ。
いったい沙紀の身に何が起こったのか、全く理由がわからない春江は、なんとか受験させようと説得を試みるが、沙紀の決断が変わることはなかった。
その日以降、沙紀は口数も少なくなり、おまけに誰とも遊ばなくなった。
美ひろとも、そしてもちろん康太とも。
ピアノに向かう時間だけが増えていく中で、沙紀は静かに自分自身と向き合っていたのだ。
春江はなすすべもなく、ただ、沙紀を見守ることしかできない。
中学受験をさせようと決めたのは母親の春江だった。
子どもはのびのびと……という方針の父親の徹は沙紀の受験にあまり乗り気ではなかったが、春江の受験計画は徹の実家を思いやってのことというのもあって、強く反対できなかったのだ。
徹の父は開業医で、小さな病院を経営している。
徹は後を継ぐ者として期待されて育ったが、親への反抗心から、医大受験をぎりぎりの段階で取り辞め全く違う道を進んだという過去がある。
それが今尚、後を引き、徹と沙紀の祖父との親子関係は最悪のままだった。
徹は実家から遠く離れた国立大学に進学したものの、母親がわずかばかりの資金を振り込んでくれるのみで、奨学金とバイトで学生時代を乗り切るしかなかった。
今は徹の弟夫婦が病院を継いでいるのだが彼らには子どもがなく、今後も望めないという事になれば、自然と徹の子どもの沙紀に両親の視線が注がれるようになったのは言うまでも無い。
祖父も孫の沙紀にはメロメロで塾の費用も果ては進学先の学費もすべて面倒見るからと、後継ぎ育成に余念がない。
そしてようやくここまで来て、沙紀のストライキに遭遇することになってしまった。
徹は自分に似てしまった頑固な娘を責めることはできなかった。
何も私学受験をしなかったからと言って医学部への道が閉ざされたわけではない。
公立校からも医学部を目指す生徒はたくさんいる。
徹は、沙紀のしたいようにさせてやろうと、春江をなだめ、なんとか受験をあきらめさせたのだった。