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ぽーかーふぇいす  改訂版  作者: 大平麻由理
第十章 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第一番
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107 待ち合わせ

 大学の夏休みも終盤に入り、朝夕は涼しく感じられるようになった九月の土曜日の午後、楽器店でのバイトが終わった沙紀は待ち合わせ場所である駅前の本屋に来ていた。

 康太は小学生の家庭教師のバイトが終わり次第、ここに駆けつけることになっている。


 沙紀は、雑誌をパラパラとめくりながら立ち読みをしていたが、康太からの連絡が気になり、本の中身に集中できない。

 というのも今日は、来週に迫った沙紀の誕生日のプレゼントを康太が買ってくれるという、記念すべき日になる予定だからだ。

 今まではクラシックのCDをプレゼントしてもらうことが恒例になっていたが、今回はそれを撤回したいと康太自ら言い出すという嬉しいハプニングがあった。

 今年は、日本の女性ピアニストによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲をリクエストしようと決めていた沙紀には、かなり意表をついた展開となったのだ。

 それも、康太が是非とも沙紀にプレゼントしたいと、驚きの品物を提案するものだから、彼女が浮き足立つのも仕方ない。

 カバンの中の携帯が小さく着信音を鳴らす。

 何も見なくてもそれが康太からの連絡だと確信している沙紀は、瞬時に画面に目を通すと予想通りの文面に肩をすくめて、小さくフフっと笑う。

 今康太が担当している小学生が探究心旺盛な五年生の男の子で、なかなか彼を帰そうとしないのだ。

 いつも三十分は超過してしまう。最高延長記録は三時間なんてのもある。

 家庭教師協会に登録しているわけでもなく、知人のつてでその子のところに通っているため、時間通りに終了して帰るわけにもいかないんだと、まんざらでもない様子で康太が語っているのを、沙紀は昨日も聞いたばかりである。

 今その家を出たばかりということは、ここに着くのに、まだ三十分以上はかかる。

 雑誌のコーナーに飽きた沙紀は、普段はあまり覗くことのない店の奥の棚へと進んで行った。


 ふと足を止めたその場所は医学関係の本のコーナーだった。

 解剖学、生理学、病態生理学はもちろん、多分臨床事例が載っているであろう英語で書かれた文献からカラー写真満載の医療機器のパンフレットのような物まで、ありとあらゆるものが所狭しと並んでいる。

 子どもの頃、長一郎の部屋の本棚にずらっと並んでいる医学書を興味本位に開いて、恐怖と気持ち悪さで体調を崩してしまったことがあったのを思い出す。

 学校の図書館においてある図鑑の人体模型図などは、簡略化されたイラストのような物が多かったのだが、長一郎のそれは、まったく違ったのだ。

 今の沙紀ならばタイトルを見ればだいたいの予想がつくので、そういったリアリティーの強い物には手を伸ばさない。

 自分には全く関係のない世界だと思いながらも、気がつけば一冊の本を手に取って帯に印刷されたコピーを目で追っていた。


 ────『私が内科医になった理由』医療従事者だけでなく、患者を支える家族にも是非読んで欲しいおすすめの一冊。

 沙紀は何かに突き動かされるようにして、その場でひたすら文字を追い続けていた。


「……さき。さーきー。おい、こら、沙紀っ! 」

「ひいっ! 」


 たっぷりと怒りを含んだとげとげしい口調にビクッと震え上がるようにして、ようやく本から顔をあげると、そこには冷たい視線の彼が……立っていた。


「こ、こうちゃん。ごめん。早かったね」

「てか、さっきメールしてからもう四十分経ってんだけど。店の中もあちこち探したんだぞ。なに医学書なんか見てんだよ」

「あっ、いやこれは違うんだ。若い女性医師が書いたエッセイだよ。読みやすいものだから、ついつい……ね? 」

「いるの? この本」


 沙紀の手から取り上げられた緑の表紙のその本を康太が目の前にかざす。


「う、うん。まだ、全部読んでないし……」

「よし、じゃあ俺がプレゼントするから。さあ、行くぞ」


 康太は怒りと仕事の疲れのマイナスオーラを背中に漂わせながら、レジカウンターにつかつかと向う。

 沙紀は不吉な予感を抱き始めていた。

 もしかして、それが今年の誕生日プレゼントになってしまうのか、と。


 店を出たところで、康太にハイとさっきの本が入った袋を渡される。

 沙紀は小さくありがとうと言うと、康太に控えめに訊ねた。


「これって、誕生日のプレゼントだよね。ってことは、その……。前に約束した、アレは、もう無しってこと……なのかな」

「ええ? そんなわけないだろ。今から買いに行くぞ。沙紀、もしかして、この本でプレゼントは終わりだと思ったのか? 」

「うん。だって、こうちゃんを怒らせてしまったし」

「怒ってなんかいないよ」

「本当に? 」

「沙紀があまりにも夢中になって読んでるから、ちょっと寂しかっただけだ。俺って、忘れられてる? って思っただけ。あはは。この本だけが誕生日プレゼントじゃ、しょぼくれるはずだよな。俺が三つもバイトを掛持ちした理由、沙紀は本当にわかってんの? 」

「いや、その……。だって、この本だって、結構高いし」

「心配いらないよ。普段も何もねだらないし、一緒に外でメシ食っても割り勘だとか言って、いつもケンカふっかけてくるし」

「だって、あたしだってバイトしてるし、男子だからっておごる決まりはないよ」

「それはそうだけど。沙紀はいつだって俺に何も買わせてくれない。だからたまにはいいじゃないか。今まで欲しいって言わなかったけど、俺はずっと沙紀にアレを贈りたかったんだ。えーっと。ここの靴屋の並びだったよな。あった。あそこだ」


 康太が立ち止まった店のウィンドウには、まばゆいばかりの色とりどりの輝きが、華やかにきらめきを放っていた。 


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