106 ライバル、参上
前半は沙紀視点で、後半から康太視点になります。
「おじちゃん、言っておくけど、あたし、まだ誰にも持っていかれてなんかいないから。ママが何か変なこと触れ回ってるみたいだけど、すべて事実無根だからね。そんな話し、信じちゃだめだよ。その、好きな人がいるってだけだから……」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、僕が立候補しようかな? 沙紀ねえ、久しぶり! 」
切った野菜が盛り付けてある大皿を手にして沙紀の前に現れたのは、康太と背格好も変わらなくなった、弟の翔太だった。
「翔ちゃん? 翔ちゃんなの? ちょっと見ない間にまた大きくなったね」
「沙紀ねえこそ、見違えるくらい、きれいになったね。ドイツの女の子もいいけど、やっぱ大和撫子には敵わないな。カレシいないの? 本当に? 」
「ほ、本当だよ……」
「なら、片想いなんてダサいことは辞めて、僕にしない? 本気だよ。昔から沙紀ねえのこと大好きだったんだ。でもいつも兄貴のガードが堅くて僕の入り込む余地が無かった。今なら堂々と申し込める。僕じゃあ不満? 」
「もう翔ちゃんったら、冗談ばっかし。あなたまだ高校生でしょ。こんなおばさんに申し込んだら、後で後悔するよ。あたし、飲み物取ってくるね」
本気とも冗談とも取れる翔太のとんでもない宣言に一瞬たじろいだが、すぐにいつもの自分を取り戻した沙紀は、さらっと話題を切り変える。
「そうだそうだ。絶対後悔するぞ。今どきの女子大生は手がかかってしょうがない。翔太、悪いことは言わん。あいつは辞めといた方がいいぞ」
沙紀が部屋に入ったのをいいことに、康太まで調子に乗ってそんなことを言う。
沙紀は背中でしっかりと聞いていたのだ。
「兄貴は沙紀ねえに相手にされないからそんなこと言うんだ。僕に彼女をとられたくなかったらしっかり捕まえておけよ。それにしても兄貴は鈍いよなあ。あまりにも身近過ぎて沙紀ねえの魅力に気付いてないんじゃないの? 」
「お前こそ日本男児の魂をどこかに置き忘れてしまったんじゃないのか? そうやって手あたり次第、女を誘ってるんじゃないぞ。いい加減にしろっ! 」
「ええ? 向こうじゃ、普通だよ。十六にもなったらみんなカノジョいるし高校生が大学生と付き合うのなんて全くノーマルだよ。兄貴だって弟の目から見てもなかなかの男前なんだし、その気になればカノジョだって出来るんじゃないの? どうせ、家ではピアノばっかり弾いてるんだろ? サッカーとピアノがカノジョだなんて、どうかしてるんじゃないのか? 」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないんだ」
「雅人兄さんも言ってたよ。おまえの兄貴は奥手すぎて話にならねえって。大学生にもなって、バイトと学校だけの日々なんて、どこが楽しいんだよ」
「俺が楽しくやってるんだからそれでいいだろ? もうこの話はやめよう。さあ、おふくろも沙紀も早くこっちに来て食べようぜ」
「すぐに行くね! 」
沙紀は弟に責められて立場を失くしそうになる康太を救うべく、飲み物を手にすると急いで庭に戻った。
(以下、康太視点になります)
キャンプ用の折りたたみ式の椅子に座ってバーベキューコンロを囲むようにして食事が始まった。
沙紀は夏子の横に座って、ドイツの女の子のファッションのことをあれこれ訊ねている。
日本より平均気温も低く、夏でも雲って肌寒い日が多いのでコートが手放せないとか、日本の夏からは想像もできない現状を聞かされ、へーそうなんだ、ととても興味深げに頷いていた。
網の上で肉やキャベツ、ピーマンも色よく焼けている。
やはりソーセージは人気で、あっという間に全部なくなった。
さっきまでの兄弟の言い争いですら、まるで何事もなかったかのように、穏やかな談笑が続く。
ちょうど庭の正面は道路で、その向こうはまだ開発されていない里山だ。
大声で話さない限り近所への気兼ねもない立地条件は、バーベキューに最適だった。
明日は夏子の誕生日だ。そして翔太も夏生まれだ。
プレゼントは何がいいかと話が盛り上がった時だった。
「俺って四月生まれだよな。そろそろホントのこと言ってくれてもいいんじゃないか? 」
康太は夏子に向かって、さりげなくそんなことを訊いてみる。
「ホントのこと? 」
夏子が不思議そうに首を傾げる。
「その……。俺を妊娠したから、おやじとあわてて結婚したんだろ? 」
夏子の顔色がみるみる色を無くしていくのが、康太の目にはっきりと映る。
同時に隣からはグシャっと鈍い音が聞こえ、振り向くと、慶太が飲み干した缶ビールを握りつぶしていた。
ただ確かめてみたかっただけなのだ。
別に深い意味はない。
バイト先でも大学でも時折耳にすることだから、今どき、結婚前に子どもが出来ることなど珍しくもなんともない。
経済的に自立した二人であれば、その事実が結婚の後押しをして、結果、幸せな家庭を築くきっかけになることもある。
自分の両親がそのいい例ではないかと、康太は軽い気持ちで訊いただけなのに。
「康太。それは今ここで言うべきことじゃないだろ。翔太もいる。それに沙紀ちゃんもいるんだぞ。そういうことくらい、おまえならもう充分に理解できる歳だと思うんだが、父さんが間違っているのか? 」
慶太がいつになく厳しい顔つきで康太を睨みつける。
「……いや。間違ってないよ。確かに沙紀は部外者だし、翔太はまだ子どもだ」
「おい、兄貴。それはないよ。僕はもう大人さ。それにその話だって、ちゃんと理解できるよ。でも、沙紀ねえの前で話すことじゃないよな。お母さんもお父さんも昔人間だから、そういう話、苦手なんじゃない? 」
翔太が腕を組み、いっぱしの口を利いてみせる。
「いやだ。みんな、なにをそんなに真剣に話してるの。私のせいね。私が言葉に詰まっちゃったから」
急に笑顔を見せながら夏子が話し始める。
「そうよ、そうなの。康太には今まで嘘ついて悪かったと思ってるわ。相崎さんご夫婦もお義兄さんから聞いてもうご存知かもしれない。だから今さら沙紀ちゃんにも隠し立てする必要もないし、それに沙紀ちゃんは私と同じ女性だから、こんなこともあるってことで、将来役に立てもらえればいいわけだし。で……。康太の言うとおり、あなたがお腹に宿って、慌ててお父さんと一緒になったの。で、でも、責任を取ってもらったとかそういうのじゃない。結婚するならこの人しかいないって、もう、決めてたことだから……。そしてほんの少し早産で……って、これはほんとよ。二千八百グラムの元気な康太が産まれたってわけ。後で、母子手帳を見せるわね」
「夏子……」
さも何でもないことのように努めて明るく言い切った夏子に、労わるような視線を投げかける慶太。
康太は微かに胸の痛みを覚える。
母親に言いたくないことを言わせてしまったのではないかと。
翔太の言うように、夏子は昔人間で恥ずかしがりな気性ゆえに、照れ隠しで早口になったのだろうか。
もやもや感が一掃されたわけではないが、そうとわかっただけでも、どこか気持ちが軽くなる。
でも康太は、これで本当にすべての疑問が解けたわけではないということに、まだ気付いていなかった。
つまり、気持ちが軽くなったということは、逆に考えれば、それまではずっと心が重かったということになる。
どうしてそんなに重い気持ちだったのか、その根本を解明することに、康太は知らず知らずのうちに自分自身でガードをかけてしまっていたのだ。
それは知らなくてもいいこと、知るべきではないことと、自分でも気付かないうちに自己防衛本能が働いていたのかもしれない。
康太がこの心の闇を解き放つまでに、この先まだ数年を要することになる。
いつも読んでいただきありがとうございます。
昨日、すべての投稿済原稿をチェックしましたところ、95話に不備を発見いたしました。
96話と重なる部分を消去し忘れたまま、投稿していたのです。
とても読みにくい構成になっていましたこと、お詫びいたします。
早朝に訂正させていただきました。