103 医師の使命
家の中から患者の息子と思われる六十代くらいの男性が出てきて、長一郎を出迎えた。
「先生、こんな夜中に来ていただいて本当にありがとうございます。さっきよりは少しましなってきましたが、なにせもう九十ですから……。それなりの覚悟はできているんですが、やはり心配で」
「では入らせてもらうよ」
長一郎が、沙紀と康太の二人に、じゃあと目で合図をして、車から出て行く。
「おや。先生。こちらは……」
男性が車の中の二人を目ざとく見つけて訊ねる。
「あっ、孫娘達だ。帰りもこのまま送ってもらうので、ここで待たせておくよ。では、早く琴さんのところへ……」
ひとこと発する時間さえも惜しいとばかりに、長一郎は診察かばんを持って、つかつかと中に入って行った。
他の家族も出てきて、長一郎を誘導する。
「あのう。そこのお二方。よければ、家の中に入ってください。こんなところでは窮屈で申し訳ない。さあさあ」
「でも……。私たちは医療従事者ではありませんので、祖父にここで待っていなさいと……」
「何言ってるんですか。あなたは沙紀ちゃんでしょ? 覚えてませんか? 昔、何度かここにも来てくれたじゃないですか。ほれ、早く、さあさあ。母に顔を見せてやってください」
男性の強引な誘いに無理やり車から降ろされた若い二人は、いつの間にか、家の中に通されていた。
縁側に面した和室に介護用ベッドが置かれ、そこに今夜の患者である年を重ねた女性がじっと横たわっていた。
長一郎は、琴さん、大丈夫ですか? と優しく声を掛け、手際よく診察を始めた。
沙紀と康太も出迎えた男性と一緒に、部屋の隅に腰を下ろしていた。
「琴さん。血圧は少し高めだが、問題ないでしょう。胸の音もきれいだ。ここのところ毎日天気の悪い日が続いているので余計に辛かったのでしょうね」
長一郎は、患者の手を取って、耳元で大きな声で話す。
「先生。さっきはどうなるかと思いましたよ。呼吸も乱れるし、意識も朦朧としてるようだったし。てっきり肺炎にでもなったのかと」
患者に代わって、男性が症状の説明をする。
「湿度も高いし、日中は気温も上がる。クーラーをうまく使って除湿と温度管理をすれば少しは快適になりますよ。それと水分をこまめに取るようにして下さいね。明日もう一度伺うことにしましょう」
「先生、ありがとうございます」
男性が長一郎に礼を言うと、今まで何もしゃべらなかった患者が微かに唇を動かした。
「ばあさん、どうしたんだ? 」
男性がベッドに近寄り、電動ボタンを押して枕側半分を心持ち起こし加減にする。
そして時折発する患者の小さな声に耳を傾けていた。
「先生。ばあさん、沙紀ちゃんのこと覚えているみたいです。今夜はよく来てくれたって言ってますよ」
深く皺の刻まれた患者の目じりに涙が一筋伝い、うつろな視線がゆっくりと沙紀に注がれる。
「琴さん、あの小さかった沙紀がこんなに大きくなりました。いつまでも子どもだと思っていたら、未来の伴侶まで連れて、うちに帰ってくるようになりましてね」
患者の耳元で一語一語はっきりと話す長一郎に、なぜか沙紀は胸がいっぱいになる。
きっとこの琴さんという人は、耳が遠いのだろう。
長一郎がそんな琴さんに、慈愛に満ちた表情を滲ませて、ゆっくりと話して聞かせているのが見て取れる。
琴さんも話しの内容を理解したのか、鼻の周りをくしゃっとさせて、にっこりと笑っている。
そしてはっきりと言ったのだ。大きくなったね、と。
「さあ、二人ともこっちに来て、琴さんに顔を見せてさし上げなさい」と長一郎が手招きをする。
沙紀は膝立ちでベッドのそばまでにじり寄ると、長一郎に促されるまま、琴さんの手を取った。
細くて力のないように思えるその手は、それでも沙紀の手を捕まえると、優しく握り返す。
そして、ありがとうと言った。
沙紀は時折、隣にたたずむ康太の方を見ながらも、琴さんの手を離すことが出来なかった。
心が落ち着き、どこかほっとするような、不思議な感覚が湧いてくる。
その間も長一郎は、男性と親しげに言葉を交わしていた。
この夏の長雨やもうすぐやってくる夏祭りのこと、そして東京で仕事をしている男性の息子のことなどをあれこれ話しているのだ。
このたわいのない世間話が、患者とその家族と医師である長一郎との信頼関係をより一層強い物にしているように思えてならない。
医者といえば耳からぶら下がる聴診器と注射と手術というイメージしか浮かばない沙紀だが、こんな風にさりげない心のケアの方がウェイトが大きいだなんて、今まで考えたこともなかった。
「それでは今夜はこれで帰るとしよう。琴さん、遠慮せずに、息子さんに何でも甘えるんですよ。そして辛い時はいつでも私に知らせてくださいね。すぐに飛んできますから」
ありがとうございましたと何度も頭を下げる家族に見送られながら、再びハンドルを握った康太は静かに車を発進させた。
そして、タキの待つ家に帰り着いた時には、もうすでに真夜中の零時を回っていたのだった。