8 ワルツ
クリスマスの日の午後、康太の家では沙紀たち親子を招待して、小さなクリスマスパーティーを催していた。
夏子の手作りケーキと春江の作ったサンドイッチやフライドチキンを囲んでのささやかな集いだった。
子ども達はゲームをしたり、ビデオを見たりして過ごし、大人達はおしゃべりに夢中ないつもの光景が繰り広げられる。
いつの間にかテレビの前からいなくなった沙紀を追って、康太は部屋のあちこちを探し回っていたようだ。
そして見つけたのは……。やはりレッスン室だった。
最近の沙紀はピアノばかりに夢中で、康太が誘いに行っても遊べないと言って追い帰されることが多かったのだ。
沙紀のやる気に気をよくしている夏子だったが、その反面、我が子のつまらなさそうな態度に、多少の不憫さも感じていた。
康太の家に遊びに来ている間もレッスン室でピアノを弾いているか、レッスンの見学をしているかのどちらかだった。
康太は遊んでくれなくなった沙紀にやや不満そうではあったが、彼も無類のピアノ好きだ。
沙紀の弾く曲を聴くのも、それはそれで楽しんでいるようにも見える。
今の今まで沙紀が弾くピアノの音色がレッスン室のドア越しに聞こえていたはずなのに、急にその音が止まる。防音室なので中の様子が伝わって来ないことに不安を覚えた夏子は、春江と共に中に入って行った。
そこにはしょんぼりとうな垂れて立っている康太と、ピアノの前に座ったまま不満そうに口を尖らせた沙紀がいた。
「どうしたの? けんかでもしたのかな? 」
いつもと違う二人の雰囲気を察した夏子は優しく問いかける。
「だって、こうちゃんが……」
先に答えたのは沙紀だった。
「康太がどうしたの? 沙紀ちゃんに何か意地悪でもした? 」
「お母さん、僕、意地悪なんてしないよ。沙紀ちゃんが、沙紀ちゃんが、何度呼んでも返事もしてくれないから、だからちょっと大きな声を出しちゃって」
「そうなんだ。沙紀ちゃんは一生懸命、練習してたんだね。でも康太はそんな沙紀ちゃんと、話がしたかったってことかな」
「うん」
「じゃあ、話してごらん。沙紀ちゃん。今なら康太が話してもいい? 」
「いいよ。そっか、こうちゃん、お話がしたかったんだ。こうちゃん、ごめんね。あたし、ピアノ弾きだすと夢中になっちゃうから。こうちゃんがそばにいるの、気が付かなかった。何? ねえ、話って何? 」
「沙紀ちゃん、ぼくと、その、ピアノ……替わってくれない? 」
沙紀はおもいっきり目を丸くして驚いていた。
「わ、わかった。いいよ。こうちゃんがピアノ替わってって言ったの初めてだ。ああ、びっくりした。だっていつもそんなこと言わないから」
「うん……」
「そっか。いつもあたしばっかり弾いてるもんね。ごめんね、こうちゃん……」
沙紀は自分の身勝手さに今初めて気付いたのか、力なく立ち上がり、目にいっぱい涙を浮かべて康太に席を譲った。
すると、今度はそんな沙紀を見た康太が慌てる。
「ち、違うよ! 沙紀ちゃん、沙紀ちゃんはこれからもずっと、このピアノ、弾いてていいんだよ。だから、そうじゃなくて……今ちょっとだけ替わってくれたらいいんだ。だから泣かないで」
「うん、泣かないよ。ほらね」
沙紀は袖で涙を拭い、鼻を赤くしたままにっこりと笑顔を見せる。
その様子を見て安心したのか椅子に座った康太が沙紀より少しだけ大きい手を鍵盤の上に乗せ、速めの三拍子を刻み始めた。
「……子犬のワルツ? こうちゃん、これ子犬のワルツだよね? す、すごい! なんで、弾けるの? どうして? 」
沙紀は何も言わずに無心に弾き続ける康太の横で、頬を紅潮させて、すごい! を連発していた。
夏子は彼がこの曲をずっと練習していたのを知っている。
そうか、この日のために練習していたのかとようやく納得した。
鍵盤の上を自由に動き回る康太の手を沙紀の目がじっと見つめている。
黒鍵と白鍵を滑らかな指使いで素早く駆け抜けていく様子に、夏子までもが釘付けになってしまった。
そして、沙紀もその母親の春江も、まばたきをするのも忘れて聞き入っているうちに、曲が終わりを告げる。
「……もう終わっちゃったんだね。でも。こうちゃん、ホントにすごいよ! 」
沙紀の拍手がいつまでも高らかに鳴り響いていた。
もちろん、春江も口をぽかんとあけたまま、呆然と拍手を贈っている。
「ねえ、こうちゃん。いつの間にこんなに難しい曲が弾けるようになったの? 」
「へへへ。沙紀ちゃんに聴いてもらいたくて、十二月になってから毎日練習してたんだ。でもね、ショパンはマズルカを習ってたからワルツも大丈夫だったよ。ぼくから沙紀ちゃんへのクリスマスプレゼント! 」
「こうちゃんありがと! ねえねえ、もう一回弾いて! お願い! 」
沙紀は顔の前で両手を組んで、祈るような格好で康太にアンコールを催促する。
「わ、わかったよ。もう一回弾くから、その……お願いだから、もうちょっとだけぼくから離れてくれる? 」
康太に抱きつかんばかりに近寄っていた沙紀は、あわててその場から一歩下がった。
三歳の時から夏子に手ほどきを受け、練習を積み重ねてきた康太は、もうすでに小学校の高学年の子が弾けるくらいの難曲もこなせるようになっていたのだ。
沙紀というライバルの登場が、康太の闘争心に火をつけると同時に、彼女にカッコいいところを見せたいという子どもらしい気持ちが育っているのだろう。
そうやって知らず知らずのうちに幼い二人が切磋琢磨して技術を向上させていったのは、指導者である夏子にとって、思いもよらない副産物となるのだった。
お読みいただきありがとうございます。
次回より少し成長した二人の登場となります。
これからもよろしくお願いいたします。