プロローグ 1
2008年にこちらで掲載させていただいた[ぽーかーふぇいす]の改訂版になります。
内容については大きな変更はありませんが、新しいエピソードも織り交ぜながら物語を進めてまいります。
「沙紀ちゃんと一緒にこんな風に街を歩けるのも、あと何回くらいかしら……」
沙紀のピアノ教師である吉野夏子は、ショッピング街の途中で立ち止まって、ウィンドウ越しに飾ってあるウェディングドレスを見ながらそうつぶやいた。
「ねえねえ、見て。とってもきれいなウェディングドレスね」
「ほんとだ。素敵! 」
「いつの日か沙紀ちゃんも、これを着て私の元から羽ばたいて行くのね……」
遠い目をしながら夏子がそんなことを言う。
「急にどうしたの? 」
「あ、いや……。沙紀ちゃんもそろそろかなって……」
「やだ、先生ったら、何言ってるんだか。こうやって先生とショッピングしたりランチしたりするのって、あたしにとっては、とっても大切な時間なのに。これからもずっと今までどおりのつもりなんだけどな……」
沙紀は夏子の真意を汲み取れないまま、ウィンドウの前で佇む彼女の背にそっと手を添える。
いったいどうしたというのだろう。
いつもならポンポンと会話のキャッチボールがはずみ、話が途切れることなんてないというのに。
「……沙紀ちゃん」
「なに? 先生、なんか変だよ? 」
「例えば……の話だけど」
夏子は視線を落とし、何か奥歯に物が挟まったような言い方でとつとつと話し始める。
「もし……。沙紀ちゃんが結婚して家庭を持ったとしたら、こんな風に私といっしょに出かけるわけにもいかなくなるでしょ? 」
沙紀は思ってもみない夏子の言葉に絶句する。
そんなありもしないこと、今から心配してどうするのだろう。
沙紀はたとえ自分が他の誰かと結婚することがあったとしても、夏子と会うのに支障はないと思っている。
でも、もし、他の誰かと結婚したとして。
元カレの母親と仲がいいというのは、やはりちょっと常識的に見て具合が悪いかもしれないと考えを改めてみる。
が、しかし。沙紀が康太と付き合っていることは、まだ夏子には知られていない。
沙紀は頭の中で、いつまでたっても答えの出ない堂々巡りに陥る。
「そ、そんなものなのかな? もしあたしが誰かと結婚したら、先生と仲良くしちゃダメなの? 」
「それは、もちろんよ。だって、考えてもごらんなさい。たとえ康太とあなたはただの同級生だとしても、お相手側はいい気はしないものよ。だから沙紀ちゃんが結婚したら今までどおりというわけにはいかないの」
「でも先生だよ。こうちゃんママはあたしのピアノの先生じゃん。こうちゃんのことは抜きにして考えようよ。それなら大丈夫だよ。ね? 先生? 」
沙紀は夏子の腕に自分の腕を絡ませて、甘えるようにして同意を求める。
その姿はまるで本当の親子のようでもあり、自分の母親にできないことも、不思議と夏子には何のためらいもなくできてしまうことに、沙紀自身が一番驚いているのだから。
「沙紀ちゃんって、ホントに楽天家よね。あなたといると、いつの間にかどんな心配事もどこかへ消えちゃうのよね、取り越し苦労だって」
「そうそう、その調子。あたし、当分結婚なんてしないから。いや、誰とも結婚なんてしない。だから心配御無用。いつだって先生とデートできるよ。それに何度でも言うけど、あたしはこうやって先生と街を歩くのが唯一の楽しみなの。先生が見立ててくれるワンピとかシャツとか。すっごく評判がいいんだもの。あたしに良く似合ってるって、みんなが褒めてくれるんだ」
「もう、沙紀ちゃんったら。そうやって私を喜ばせるんだから……」
最近涙もろくなっている夏子を知っている沙紀は、鼻をすする音を聞くや否や慌てて別の話題に切り替えて、この湿っぽい空気の流れを変えようと試みる。
「それに……。もし、あたしが先生と会えなくなったら、誰がこうちゃんの近況報告をするの? メールや電話じゃ、細かいところまで伝わらないでしょ? その役目だけはまだ誰にも譲れないから。だから、しばらくは、じゃなくて一生仕事一筋で頑張る予定だから安心して! 」
「まあ、沙紀ちゃん。ありがと……。でも一生結婚しないって、それはそれでまたひとつ心配事が増えちゃったけどね、ふふっ」
ようやく笑顔を取り戻した夏子が、小さい子にするように沙紀の頭を優しく撫でる。
昔、ピアノの練習曲で思うように弾けなかったところが次のレッスンでうまく行った時、いつもそうしてくれていたように。
「でもね沙紀ちゃん……」
また夏子の表情が曇り始めた。
「あなたももう二十七歳よ。そろそろ自分の将来のことも考えなくちゃね。今は結婚する気が無くても、素敵な人が現れるとすぐに気持ちが変わるわよ」
「えっ? そうかな? そんなこと無いし。うん、絶対にないよ、ないと思う、多分……ない」
沙紀は返事に困ったが、いつものことだ。
気にせず聞き流しておこうと愛想笑いを浮かべてその場をやり過ごそうとしたのだが……。
その日の夏子は違った。そこで終わらなかったのだ。
「職場の先生方とか大学時代のお友達とか……。沙紀ちゃんのことを大事に思ってくれる人が今までにも何人かいたんじゃないの? なのに沙紀ちゃんはいつも断ってばかりで……。だから少しばかり期待してたのよ。もしかしてうちの康太と案外うまくいってるんじゃないかしら……ってね」
沙紀は後ろめたさのあまり、引き攣り笑いを浮かべることしかできない。
夏子の言う通り、康太とはすこぶる順調な付き合いだ。結婚こそまだ視野に無いがずっと彼と一緒にいたいと思っている。彼のいない人生は考えられない。
この際、本当のことを言ってしまった方がいいのではないかと苦しくなってくる。
本当は康太と付き合っている、と……。でもそんなこと、今さら恥ずかしくて言えるわけがない。
ましてや自分の両親には尚更のこと、知られたくない。
できることなら一生隠し通しておきたいとまで思っている沙紀は、いざとなると勇気のない小心者の自分にいい加減うんざりする。
「でもたまに帰って来た康太に聞いても、そんなわけない、沙紀のことは知らん! の一点張りでしょ? そりゃあそうよね。あんな仕事人間じゃ、誰も寄り付かないわね。でもね、もたもたしてたらそのうち沙紀ちゃんが誰かにさらわれて、どこかへ行ってしまうわよって発破をかけるんだけど、全く聞く耳を持たないのよ。あの子も沙紀ちゃんと一緒で、あなたが一生誰の元にも嫁がないって思ってるのかも。ねえ沙紀ちゃん。あの子、誰か好きな人でもいるのかしら。こっそり付き合ってる人とか、いない? 」
またもやドキッとする心臓を持て余しながら、沙紀は、さあ? ととぼけて見せた。