アザラシ
【pixiv】にも同じ作品を載せていますが、こちらは細かい部分を手直ししました。
隣のクラスにアザラシがいる。とても大きくて、机を三つ占領している。しょっちゅう吠えて暴れるので、マユキの教室まで声が聞こえてくる。
アザラシはマユキが大好物だ。せっかくクラスが違うのに、わざわざ授業を抜け出して会いに来る。ドアが閉まっていても関係ない。軽く体当たりをすれば壊せてしまうのだ。
「マユキ、遊ぼうぜ」
「嫌です」
「俺はマユキと友達になりたいんだ」
「僕はなりたくありません」
アザラシは、普段は人間の男の子の姿をしている。目がくりっとしていて、笑うと愛嬌がある。騙されて友達になった子もたくさんいる。
女の子からもそこそこ人気がある。何も知らない下級生が、廊下で待ち伏せして手紙を渡していたこともある。
「アザラシ君って可愛いわよね」
「そうね。ワイルドで素敵」
どうして誰も気づかないのだろう。隣のクラスはマユキのクラスより五人も減ってしまった。先生も二回変わった。
時々誰かの上履きやシャツが落ちている。赤く汚れて、不自然に千切れた状態で。
今日もアザラシがやってくる。
マユキは走って逃げる。アザラシは追ってくる。階段を降り、二階の廊下を端から端まで走り、上級生を押しのけ、また階段を降りる。
アザラシは大きな腹で這い、階段を滑り降りてくる。ぎらぎらした目と荒い息遣いが、マユキの小さな体をとらえる。
「俺はマユキと友達になりたいんだ」
白と黒のまだら模様をしたアザラシは、山から押し寄せる雪崩のようだ。走っても走っても、マユキは大きな影に飲み込まれる。
一階の廊下を走り抜ける。校長室の前まで来ると、マユキは足音を立てないように歩調をゆるめる。アザラシは止まらない。あっという間に追いつき、ぬるりとした両手でマユキを捕まえ、鋭い牙をむく。
「俺たちは仲間じゃないか」
「僕の仲間は北海道のイクラとタラコです。それにダイヤモンドの原石です。ダイヤモンドは炭素原子が共有結合で結晶を作っています。ダイヤモンドの硬度はギガパスカルという記号で表します」
「いいや、俺たちは仲間だ」
助けてください、とマユキは叫ぶ。ダイヤモンド五百個分の声で叫んだので、職員室から先生が集まってくる。
「何してるの、二人とも!」
アザラシは人間の姿になり、甘えた声で笑う。先生はマユキを叱り、今は遊ぶ時間じゃないと言った。
教室へ戻った時にはもう、漢字の書き取り三時間耐久勝負も早撃ちことわざロワイヤルも終わってしまっている。
どうしたの、なんで遅れたの、と数人の子たちが心配そうに言う。マユキは黙って席に着いた。
マユキがどこにいても、アザラシは追いかけてくる。ロッカーの中に隠れても、本棚の一番高いところに登っても、必ず見つけられてしまう。靴箱の中も、机の引き出しもだめだった。そんなところに隠れられるのはマユキだけだからだ。
「マユキ、遊ぼう」
「嫌です」
どうして誰も気づかないのだろう。隣のクラスの人数は半分になってしまった。二年生の男の子がわたあめに閉じ込められている。校庭には冬でもスイカの実がなっている。南極のペンギンは絶滅寸前だ。オオウミガラスはとうの昔に絶滅してしまった。
マユキは走る。走って焼却炉に飛び込み、給食室のエレベーターからそっと出る。窓を開け、ダイヤモンドの原石を呼ぶ。原石は雲間から現れ、マユキを救い出す。透明に輝きながら、七十ギガパスカルの硬さでマユキを突き飛ばし、学校から出してくれる。
出してもらったあとは、電車に乗って帰る。改札を通ってしまえば、アザラシはもう追ってこない。それでもマユキは走る。電車の中を行ったり来たり、結合できない原子のように走り続ける。
ある朝学校へ着くと、階段の前でアザラシが待っていた。周りには誰もいない。隠れられる場所もない。
アザラシはにんまりと笑った。大きな体を伸び上がらせ、じりじりと近づいてくる。牙が光り、マユキは後ずさった。
「僕は食べられません」
マユキは言った。
「世界中のダイヤモンドが砕けても、アザラシなんかに食べられたりしません」
「お別れを言いに来た」
マユキは目を閉じた。
アザラシは動かずそこにいる。
「俺、しばらく学校来ないから」
目を開けると、人間の姿をしたアザラシが立っていた。丸い目でにっこり笑い、マユキを見ている。
「俺のとこ、父ちゃんがアザラシで母ちゃんが人間だろ。今、別々に暮らしててさ。父ちゃんが俺を引き取ることになったんだ」
「それで何で学校に来ないんですか。法律で決まってるんだから休めませんよ」
「マユキはさー、いつもそうやって理屈こね回してるからモテないんだよ」
ぐっと言葉に詰まったところで、アザラシはあっさり背中を向けて歩き出した。
「じゃあな」
「手紙書きますか」
「俺、字書けないから」
アザラシは歩いていった。マユキより背の高い後ろ姿が、人間なのかアザラシなのかわからなくなる。
どれくらい経ったのかわからない。
マユキは見つめていた。雪の溶けた荒野に立ち尽くすように、アザラシが去っていくのをただ見つめていた。