4月6日 「浮気」
「お゛……おえっ……っ」
ゴクッ
嗚咽のすこし後に最後の一口が喉を通過した音が聞こえた。
何時間をかけて食事を行っていたのだろうか、窓の隙間から夕日が差し込んでいる。
「全部食べれたね、えらいよ銀桜さん」
僕はなお俯いたままの銀桜さんの口周りを優しく拭い、頭を撫でた。傷んだ髪の1本1本が僕の手と心に突き刺さる。
ごめんね、銀桜さん
「真奈のお見舞い行ってくるね、夜ご飯は銀楼さんの好物のカレーを作るよ」
反応はもちろんない。
聞いているのかすら分からない。
話しかけても意味は無いと、僕自身分かってはいるが何かに期待しているのだろう。
一縷の希望に縋るかのようにそう言い残しおぼんの上に食器を乗せて部屋を出た。
ーーーーーーーーーーバタンーーーーーーーー
部屋を出た僕はリビングに向かい、机に予め置いてあったタオルで食べ物の残骸や汁で汚れた顔を拭く。
銀楼さんと共に付けあった汚れを落とすという行為が、銀楼さんにとってどんな影響があるか分からない。
だから銀楼さんの前で顔は拭けない。
僕の一挙手一投足で銀楼さんを更に不快にさせることなんて許されていないのだから。
「ヴッ……」
ふと、喉元まで濁流が押し寄せている不快感が僕の五感を襲う。
喉元まで「それ」が達していると身体が気づいた時と言うのは大概が手遅れというもので、既にそれは口内に到達していた。
その勢いは口をガムテープで塞ぐ気概を持ち。強く強く塞いでも防げるものでは無い。
川の氾濫に呑まれた僕ら人間はあまりにも無力なように……
「おえぇえ……ぇえええ」
リビングの床に僕の胃の中のもの全て吐き出さんとするほどの量の吐瀉物が流れ落ちる。
「あ……ぉ゛っ……うぅ」
吐瀉物を全て放出し力の抜けた僕をささえるものなど何も無く、力なく身体は吐瀉物の上に倒れた。
酩酊する意識と、鼻腔を通り抜ける激臭の中。
僕の口は自分の隠していたはずの本心を言葉として放っていた。
「ぜん……ぶ……ぜん…………ぶおねぇちゃんの……せいだ……」
やめろ
「あいつの……せいで……ぎんろうさんが……ぼくが……」
でも、銀楼さんに口移しをすることすら受け入れられない体になったのは誰のせいだ
「あんなやつ……そんざいして……いいわけ……ない……ぁ」
いやそもそも姉が僕を犯さなければこんなことにはならなかった、僕はあの家に居れた。家族とも過ごせた。銀楼さんも傷つかなかった。
「ころして……やる……ころす……あくま……ころす」
殺してやる。あなたのせいで僕は。
殺す。
殺す。
殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す「おにいちゃん!!」
「はっ!」
あれ?
「……大丈夫?」
辺りを見渡す。
僕の周りにあるのはカーテンで覆われた病室、そして窓の外の日はすでに落ちほのかに赤みを含んだ闇が拡がっている。
僕の鼻腔を劈くのは吐瀉物の刺激臭ではなく薬品の香り。
目の前のベットには未だ包帯で覆われた僕の妹が横たわっている。
あ、そっか。
僕は今、真奈のお見舞いに来ているんだ。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「あぁ……うん、大丈夫」
その言葉とは裏腹に僕は自分の顔を両手で覆い隠す。
「あれ」からの記憶が抜けてる。
あの吐瀉物はどう処理したのか、どうやって病院まで来たのか、真奈と直前まで何を話していたのか。何も覚えてない無い。
はは、僕の体と精神も、もう限界に近いということか。
「銀楼さんみたいになるのも時間の問題だな」
…………………………あ。
「え?」
「あいや、なんでもない。ごめん」
最悪だ。
「僕の煮えたぎってぐちゃぐちゃになった最悪の感情が声に漏れていた。
なんだよ、銀楼さんみたいになるのも時間の問題って……そんなこと思っちゃダメだ。性格が悪いにも程がある」
「お兄ちゃん?」
「……え?」
駄目だ。
僕のすべての感情が声として心の中から飛び出していく。
心の中だけが唯一侵されないパーソナルスペースであるのに、だ。
背中を丸め、顔を手で覆い隠し、外界からの情報を一切遮断してもなんの効果もない。
終わってる、僕はもう終わってる。
「……辛いよね」
「……え?」
「お兄ちゃんだけ、無事だったんだもん」
「……真奈?」
「私が大怪我をして、銀楼さんは病んで、お姉ちゃんは意識不明……」
「……何を……言ってるの?…」
「なのにお兄ちゃんだけ無事だったから、自分が弱音を吐く訳にも行かない、私たちをサポートしなくちゃいけない」
「っ……」
「私たちの方が辛かったんだから、お兄ちゃんが苦しんで……悩んでいるなんて私たちに悟られちゃいけない」
「真奈……やめて……」
「お兄ちゃん、私はわかってるよ?だからーー」
「やめてよ!!」
僕は思わず声を荒らげ立ち上がり、ベッドの手すりに体重をかけ、それに呼応しガラン!っとベットが揺れる。
なんで僕は激昂している?わかんない。
今から僕が吐くのは僕の感情とは無関係の言葉達だ。なのに止められない。
「真奈のお見舞いに行くのが!銀楼さんの世話をするのが!僕の負担になってるって言いたいのか!!!」
おそらく初めて見るであろう兄の激昂した姿を直視しても尚、真奈の瞳は僕を見据えている。
「はぁ……はぁ……だ、大丈夫だから、真奈。僕は大丈夫だから」
「……大丈夫なわけない」
「真奈の方が、僕より辛いんだから」
「……うん……違うよ?」
「……は……ぁ……?」
「お兄ちゃんの方が辛いに決まってる。……私は、痛いだけだから」
「ッ……」
真奈の言葉を受けた僕は力なく椅子にもたれかかる。
僕は真奈に何を言わせているんだ?
痛いだけたなんて、そんなこと……そんなこと……
兄……失格だ……。
「お兄ちゃん」
「?」
刹那。熱を含んだ柔らかいような硬いような感触が僕の右頬に触れたのを感じた。
恐る恐る視線を右にやる。
そこには真奈の顔があり、僕の頬に触れていたのは辛うじて包帯で覆われることから逃れられていた真奈の唇だった。
「……真奈?」
あまり、驚いていない。
いつもならあまりの衝撃に僕はのけ反り、それを見た真奈にからかわれるのだろう。
だけど全ての自称に対して何らかの感情を持つ、そんな大層な事今の僕にはできるはずがない。
「驚かないんだね」
「……うん……」
「私の気持ちに気付いてる、から?」
「……多分、違う」
……わたしのきもち?
なんのことだろう。
「そっか、だよね。」
「私たちはきょうだい……だし。お兄ちゃんは、お兄ちゃんだし、私は…………真奈だし」
「う、うん」
包帯の隙間から見える真奈の瞳は光を含み、淡く揺れていた。
真奈の瞳が揺れるのを僕は初めて見た訳じゃない。
最後に見たのは……あの日。
真奈が、大怪我をした日。
それを見る度僕は、正直、煩わしく思っていた。
はは、そうか。
今更気づいた。僕は兄貴になる資格なんて、無かったんだ。
僕は誰かを支えたいと思う反面「他人」の事を、自分の人生を消費して支えることを生きがいにしている自分に辟易していた。
真奈と初めて会話をしたあの日。
兄貴らしく振る舞わないとと思って少し背伸びした。だけどその後にやたら僕に懐いてきて、毎日のように相談をしてくる真奈に……苛立ちを覚えていた。
涙を流している人に対して無関心を決め込むのは「無慈悲な人間」だ。
だからそれを視界に入れた瞬間に何かしらのアプローチをしなければいけない。
だけど。
……ああ、またかって、そう思ってた。
僕は「無慈悲な人間」になりたくなかった。
だけど僕の本質って言うのはーーー
「僕は、善人になりきれない……自己中心的な人間だよ」
「うん、しってる」
真奈はそう答える。でも多分、真奈は何も知らない。
「僕ね……支えるより、支えられたいんだ」
「知ってる」
まだ言ってる。僕だって今気付いたんだ。
「真奈が、知ってるわけ……ないよ」
「知ってるよ、全部」
「真奈?」
「でも、お兄ちゃんが悪いんだよ。私が……私の欲しかった言葉を……かけてきたんじゃん」
欲しかった言葉?
「だから、好き。だから、分かってるのに、見て見ぬふりして……。だから、お兄ちゃんに大して悩んでないことも毎日……毎日相談してた」
「え?」
「だって……相談してる時だけお兄ちゃんは真剣に、私と向き合ってくれるから」
真奈が僕の事を……好き?
多分この目は兄妹愛とか言う範疇を越えた本気の好きだ。そういう目を僕は何回も見てきた。
やめてくれ……真奈。やめて……くれ。
「だから!」
ふと、視界は闇に覆われ。強制力を持った暖かい空間に僕の体は包まれた。
ガッチリとその空間に掴まれ、身動きは取れない。
だけどすごく近い距離に、真奈を感じる。
真奈の呼吸音や、心臓の揺れが僕の体にまで伝わってくるからだ。
そうか、暖かいのは真奈の体温が伝わってくるから。
僕は真奈に、抱きしめられている。
「次は私が……お兄ちゃんを支える。愛してるよ、お兄ちゃん。」
「ま、まな……?」
抱きしめられているのに、例の如くトラウマの効力は発動しない。
むしろすごく、心地がいい。
銀楼さんですら抱きしめられると心身共に負担がかかるのに、だ。
いまなら真奈に打ち明けられる気さえする、ほんとに酷い彼氏だ。
「…………僕ね、疲れたんだ」
真奈の浮いた背中を自分の方へと抱き寄せる。
更に僕らは密着する。
「うん、わかってるよ」
「でも……銀楼さんのことは僕が支えなきゃ行けない、それは義務とかじゃなくて……僕の意思だ」
「……うん……」
「でも、1人で抱えすぎたんだ」
「そうだよ、お兄ちゃん。頼ってさ、いいんだよ?私は頼って欲しいんだよ。」
「うん、あり……がとう……真奈。」
「ありがとう、なのはわたしのほうだよ」
あれから少し時が経って僕は暖かい空間から抜ける。
抜けた先には真奈の顔。抱きしめあって、至近距離で見つめ合う。
真奈は僕の事が好き、だからこれから起こりうることを僕は分かっていたんだ。
なのに避けようとか、やめさせようとかそんな気持ちはわかなくてーーー
気付いた時には、唇の感触が重なり合っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ごめんね、お兄ちゃん。そして……銀楼さん。
今しかないって思ったの。
支えられる人がいないこの状況で私がお兄ちゃんを支えれば、必然的にお兄ちゃんは私に依存する。
ずるくて、ごめん。
でも。
キスした時、嬉しかったの。
涙が止まらないくらい、嬉しかったの。
だから許して。
愛してる、お兄ちゃん。
いや……優蘭。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
家のドアノブが重い。
それは銀楼さんの介護をしなきゃいけないことに対する倦怠感からなのなか。
それとも、真奈とキスをしてしまった罪悪感からなのか。
おそらくそれは両方だろう。
僕は真奈の好意を受けいれた。
兄妹であることを自分から放棄した。
浮気、だな。
許されていいはずがない、こんなこと。
僕は………何をやっているんだ。
部屋への扉が何よりも雲を突き刺すほどの絶壁に見えた。
でも、逃げることなんて許されない。
僕は扉をこじ開けた。
ーーー
「え?」
そこには目を疑う光景が待っていた。
僕の眼前にいるのは、自立して、二足歩行で立っている。銀髪でーーそしてーーー
あぁ………
「銀楼さんっっ!」
そんな権利はとうに失ったと言うことを知りながら、僕は靴を脱ぎ捨て銀楼さんの元へ走り出す。
銀楼さん、銀楼さん、銀楼さんーーー
「ねぇ、優蘭……どこ行ってたの?」
「……え?」
銀楼さんから出たのは、思いがけない言葉。
「私を1人にしないって……言ってくれてたのに……」
「……え?」
「嘘つき」
「…………銀楼さん?」
それは、僕の犯した罪を断罪するかのような、鮮烈なる衝撃だった。
「嘘つき!!!」




