3月1日 揺れる心と揺れる気持ち
「お兄ちゃんはしてたんだね、お姉ちゃんにされたことを銀楼さんと」
「まっ…な…」
「私ももう子供じゃないからこれが「どんな行為」に使われるかくらい知ってるよ?」
と、鋭く、光の灯していない目で真奈が僕に冷たく言葉を投げ捨てる。
真奈の足元には真奈の怒りの元凶であろうぐちゃぐちゃに潰され見るも無惨な姿になったコンドームの箱が転がっている。
……まずい……これを…真奈に見られてしまうなんて…
あのゴムは前に銀楼さんがうちに遊びに来た時に※こっそり買ってきていたもので、その時は「僕の精神上の悪影響を考慮してそういった行為は当面しない」という結論に至ったため、そのゴムが日の目を浴びることは無かったのだが…
その後2人で話し合った結果「いつか「そういう事」を僕達がするタイミングになるまでタンスの中に閉まっておこう」とある種の路線変更をし、あれから数ヶ月ずっとタンスに放置されていたのだ。
※「第17部、僕の嘘と君の願い」参照
だから真奈の疑うようなそういった行為は一切してなけれども、僕は姉から酷いトラウマを受けて真奈達を悪い言い方をすれば…捨てて家を出てきた。
そんな僕が、こう言った「性行為のため」の道具を持っていることは真奈にとっての裏切行為だということは痛いほどわかる。
だからこそ……真奈に弁解しなければ…。
「……真奈、違うんだ...これはここにあっただけで...1回も使ってないんだよ」
「あるだけでダメでしょ」
ううっ……ぐうの音も出ない。
いつもとは違い冷静に僕を追い詰めてくるまなはさらに口撃を続ける。
「私、がっかりしたよお姉ちゃんにひどい目にあわされたお兄ちゃんが...裏でこんなものを買ってたなんて」
「真奈……」
「お姉ちゃんの言ってたことも...ほんとだったのかもね」
「……え?」
お姉ちゃんが……言ってたこと?
姉さんが僕について……何か言っていたのか?嫌な予感しかしないのは流石の姉さんクオリティだ。
「ね……姉さんが……なんて?」
真奈は溜息を吐き、肩を下ろす。
そして姉が語った僕を語る。
「お姉ちゃんはね……『優蘭は私と一緒になれて嬉しがってる』っていってたよ」
「ッッ……」
姉から語られていたのはありもしない虚言。
僕は心の底から姉を嫌悪している。姉のあの自らの欲を満たす独りよがりの行為に快楽を...そして喜びを感じた覚えは無い。
だけどそんな姉の妄言さえも間に受けてしまう程真奈の中での僕への信頼は落ちぶれてしまっているのか。
「……そんなこと……あるわけ...ない」
「そうなのかな?本当はお姉ちゃんとそういうこと出来て嬉しかったんじゃないの?」
「っっそんな訳っっないっっ!!」
真奈の言葉に思わず声を荒らげてしまう。
大人気ないし、情けない。声をはりあげた直後に自分自身を嫌悪した。
何をやってるんだ僕は……妹相手に……
「……なんでもない...ごめん...真奈」
「...いや私も...言いすぎた...お姉ちゃんの嘘だっていうのは...わかってる...」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ真奈の声は掠れている。
僕の知っている真奈は明るくて、気さくでそして生意気な妹。
そんな真奈がここまで憔悴し、放つ言葉を見失っている。
それほどまでに僕の行動が真奈を追い詰めているのだと実感し自分自身の愚かさに激しく目眩がした。
「……真奈……」
「……お兄ちゃんが、これ買ったわけじゃないんでしょ?」
「っ!!」
恐らく真奈はこの質問を通して僕の正確な罪状を知ろうとしているのだろう。
……このゴムを買ってきたのは……銀楼さんだ。
僕が真実を打ち開ければ僕の罪は晴れ、逆に銀楼さんが僕のトラウマに何も配慮できてない愚人との烙印を押されることになる。
真実を打ち明ければ、僕は多分許される。
僕にとって...真奈は自分の命よりも大切な存在。これからの人生をずっと、真奈から嫌われて生きていくなんて僕は絶対に耐えられない。
………………でも……
「…………買ってきたのは、僕だ……」
「そうなんだ」
銀楼さんだけにに罪を被せて生きていくなんて、もっと出来ない。
真奈は足元にあったぐちゃぐちゃの箱を広いゴミ箱に放りなげ、体当たりする様にソファに腰掛けた。
「この際だからさぁ...聴いておくけど」
「...うん」
「お兄ちゃん、美織さんの事はもういいの?」
「...え?」
み……美織……?
真奈は確かに今、『美織さん』と言った。
僕の...僕の聞き間違いじゃない。しっかり真奈の口から出た言葉だ。
蕾沢美織
彼女は僕の幼馴染で、姉さんの凶行により失った大切なもののひとつ。
そして...僕が壊れた原因でもある。
「み……美織が...どうしたの?」
「いや、お兄ちゃんがあぁなるまではすっごい仲良かったじゃん。夫婦みたいなかんじでさー」
真奈はぶっきらぼうに言う。
まるで美織には何も興味はないけど、僕の心を動揺させる為だけに美織の話題を出しているかのような感じがした。
「……それは……前の話で...美織は僕の事をもう嫌ってるし...僕も……」
「美織さん、悲しんでたよ?」
「……え?」
真奈は何を……言っているんだ……
美織は僕に確かにこう言ったんだ。
「あなたなんかいきているかちがない」と、確かに。
そんな美織が僕がいなくなって悲しんでる?こんな悪趣味な冗談を真奈がつくなんて。
「……そんな訳……ないだろ?」
「ホントだよ、私が言ったんだもん」
や……
「なにを...言ったんだ?」
「お兄ちゃんのあの動画、お兄ちゃんは被害者だって。お兄ちゃんはなんも悪くないって。」
やめ……
「……え?」
「そしたらさ、美織さんいきなり泣き出してさ?優蘭に謝りたいんだ〜〜って」
やめて……
「やめてくれ……」
「お兄ちゃん、1回美織さんと会ってみれば?」
やめてくれ…………
「やめてくれ!!!」
やめてくれ……やめてくれ……
美織が……僕を恨んでない?
美織が……僕に会いたいと思ってる?
クラスでの誤解が……解けてる?
じゃあ僕がここに居る意味は、大桜区にいる意味は?
僕は……僕は……!!
「お兄ちゃんさぁ、銀楼さんじゃなくて美織さんのことの方が好きなんでしょ?」
「……」
「だから戻ってきなよ、また一緒に暮らそう?お姉ちゃんは私が何とかするからさ」
真奈は僕の手を握り、真っ直ぐと僕の顔を見つめる。
「…………」
僕……は………………
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あれから数十分が経ったけど、お兄ちゃんの返事はなかった。
お兄ちゃんはずっと、ただ虚ろな目で下を向いているだけ。
私の後ろに居るお兄ちゃんは、本人ではな精巧に作られた蝋人形なんじゃないかと錯覚させられるほど光を失っていて拍動さえ感じない。
嫌でも思い出されるのは数ヶ月前の姉に監禁されクラスでも爪弾きにされ、生きる気力を失っていたお兄ちゃんの姿。
私はお兄ちゃんをそんな姿にした姉が許せなくて、殺してやろうとさえ思った夜もあった。
だけど今、お兄ちゃんがこうなっているのは姉のせいじゃない。
お兄ちゃんをこうさせたのは、私だ。
私のせいでお兄ちゃんが昔のような状態に戻っていると思うと...
心が痛む。
心が軋む。
心が……擦り切れる。
だけど、そんなことが霞んで見えてしまう程。
『銀楼鈴音』と縁を切って欲しかった。
銀楼さん(あのおんな)は...危険だ。危険すぎる。
恐らくあのゴムを買ってきたのはお兄ちゃんではなく銀楼さんだ。
お兄ちゃんが自分からゴムを買ってくるはずもないし、なにより『ゴムを買ってきたのは僕だ』と言っていた時のお兄ちゃんの目はありえないほど泳いでいた。
割と色眼鏡が入っている考察だとは思うが、きっと合ってると思う。
上の通り銀楼さんがゴムを買ってきたと仮定すると、銀楼さんはお兄ちゃんの都合なんて考えず自分の想いを押し通すような人間性であることが伺える。
まるで……姉のように。
きっと銀楼さんはお兄ちゃんのトラウマについて知っているだろう。
なのにゴムを買ってくるという到底考えられない行為に及んだのなら銀楼さんは断罪されてしかるべきだと思う。
私の愛するお兄ちゃんのことを考えられない彼女なんて……いちゃいけない。
だから...切り離さないと。
だからお兄ちゃんと最も仲の良かった『蕾沢美織』の情報をお兄ちゃんに与えた。
お兄ちゃんはきっと蕾沢さんののとを好きだったのだろう。
それはお兄ちゃんの蕾沢さんへの接し方を見れば明らかで、私はずっとそれに腹を立てていた。
本心を言うなら蕾沢さんとも関わって欲しくない。
だけど悔しいことに、蕾沢さんの存在が1番お兄ちゃんの感情を揺さぶれることもわかっている。
私はその事実にさえ激しい憤りを覚えてはいるが、それが些細なことだと思えるくらい、銀楼さんのことが許せない。
あの人は、私の……私の大切なお兄ちゃんを私のお兄ちゃんを私の知らない所で奪い自分の物にした。
私のお兄ちゃんの家に居座っていた。
私のお兄ちゃんと行為に及ぼうとしていた。
私のお兄ちゃんの心の中心に存在していた。
私のお兄ちゃんを心から愛していた。
ぜんぶ、ぜんぶ、全部が許せない。
だから切り離す。
お兄ちゃんに……『銀楼鈴音』は必要ないって思わせないと行けない。
お兄ちゃんには私が……私がいればいいんだ……
「真奈……」
「!!」
ずっと時の止まっていたお兄ちゃんの時が動き出した。
予期せぬ復活にびっくりした心臓が思わず飛び跳ねる。
だけど依然としてお兄ちゃんの目には光が無いし
「……美織に……伝えて欲しいことがあるんだ……」
「……うん」
ゴクリ、と息を飲む。
お兄ちゃんの一挙一動に注目する。
「……僕は……もうそっちには戻らないから……僕のことは気にしないで……生きていって欲しいって」
え……?
「伝えて欲しいんだ」
嘘でしょ?お兄ちゃん。
蕾沢さんより、あの家に戻るより……
銀楼鈴音のことを……愛しているの?
「み……美織さんの事はもういいの?」
「……いいわけじゃないよ、美織は……大切な友達だ。ただ今僕には銀楼さんがいるしこの街での暮らしがある……だから美織にには会えないし……家にも帰らない」
……私は絶望した。今の私の感情にこれ程合う言葉はないだろう。
お兄ちゃんにとって銀楼鈴音がとてつもない程に大きな存在になっている事実に。
そして、私が何をしても銀楼鈴音とお兄ちゃんを引き離すことが出来ないという事実に……。
「お兄ちゃん……」
「ごめん……真奈……」
ガチャッッ
扉が開かれる音がした。
そしてその音が私の耳に届いて約3秒。
「ただいまー……」
今私が最も聞きたくない人間の声が、聞こえてきた。
美織と優蘭の関係性については「ごめんなさいと言いたくて」や今回の話しで触れられている様に限りなく恋人に近い友人(でもどちらも両思い)みたいなじれったい関係性です。




