01 悪魔
秋風が醜悪な感情を掻っ攫ってくれるような、そんな季節の始まりだった。
優真は心臓が張り裂けそうなほどのを脈動を打ち、その鼓動からそのまま血が漏れている感覚に襲われていた。
ドクドクと赤い液体が地面に広がっていく。
呼吸が乱れて荒げるたびに、それは湧き出ていく。
「……ハァ、ハァ」
這うようにして逃げようと試みたが、鉛が埋め込まれたように重い足は引きずることすら難しかった。
頭の中が様々な恐怖に支配され始めた。
「佐倉、刑事……っ!?」
背後の佐倉はそのまま銃口を響子に向けると、声を震わせながらいった。
「悪いね優真君。でも要求に応じてくれなかった矢吹響子を恨んでくれ」
少なくとも冷静を取り繕うとはしているが、取り乱していることは確実だった。
優真を撃ってしまった興奮を必死に抑えようとしているようだった。
「ア、アンタは……いったい」
「優真!」
今の佐倉は危険だ。
響子はすぐに察した。
さっきまでの怯えの瞳は撃つことを躊躇っている人間の目ではなかったのだ、と。
寧ろ撃つ覚悟を決めたからこその怯えだったのだ、と。
「矢吹響子! さあ、投降しろ」
響子は激しい動揺を露わにし、その美羽の喉元にあてがっていたナイフを外してしまった。
「……優真!」
その瞬間、美羽は響子の手首を持ち、思い切り捻りあげた。
「いっ!」
思わずナイフを落としてしまった。
「そろそろかな?」
美羽がそう呟いた刹那。
響子の下半身に激しい痺れが襲った。
立っていられなくなり膝をついた響子の肩に、美羽は爪を喰い込ませるほど力強く掴んだ。
昨日、痛めてボロボロになった響子の肩に骨が砕かれるほどの激痛がはしった。
「ああっ!」
「うん、やっと効いてきたみたいだね。さっき傷口に塗った毒」
「え……?」
「さっきの絆創膏に血流に混ざると麻痺する薬を塗っておいたんだ。どんなもんかと思ったんだけど、結構いい感じで効くね」
美羽は怪しく微笑むと、響子から視線を外し佐倉へ向けいった。
どこか不満そうな子供のようなふくれっ面だった。
「ひどいよ、お兄ちゃん……。優真君を撃つなんて」
しかし、先ほどまでの声のトーンよりも低く無機質な声質でそう告げた。
「お前の命には代えられないから、しょうがないだろ。美羽」
佐倉は銃を手でポンポンと小突きながら、うろうろと歩き始めた。
「別にお兄ちゃんがそこまでしなくても、平気だったのに」
そういうと美羽は自らの喉元から流れ出た一筋の血を指でとると舐め、「おいしい」と呟いた。
優真は響子へと手を伸ばした。
「響子……!」
佐倉はその手を踏みつけ、何かを諦めたかのように優真を見下ろした。
「佐倉刑事、お前……なんなんだっ!」
フフン、と佐倉は愉悦そうな笑顔を浮かべた。
「優真君。ありがとう。高校化学室爆破事件の犯人を矢吹響子だと教えてくれて」
「……っ!?」
佐倉は内ポケットからボイスレコーダーを取り出し、再生のボタンを押した。
『全て白状しよう。高校化学室爆弾事件の犯人はお前……いや、俺たちだよな。響子』
『遠藤、田名部、岸本を誘い出したのは響子、爆弾のスイッチを押したのは俺だ』
紛れもない優真の声がそこから聞こえてきた。
「逃れようのない自供だ」
「そんな、どうしていつの間に……っ!」
「矢吹響子の奇行を止めようとした優真君は必ず自供をするはずだと、念の為、ボイスレコーダーを起動させておいたんだよ。いや、やはり僕の目論見は正解だったようだ」
「!」
威嚇する野良猫のように優真は睨みつけた。
そんな優真に哀れみを抱いたのか、吐息をついた。
「お礼と言ってはなんだが、ひとつ良いことを教えてやろう」
「うるせえ……っ! 全部お前の仕業だったってことか!?」
「……」
佐倉は手を踏みつけていた足を離して、そのまま優真の撃ち抜かれたふくらはぎを踏みつけた。
「年上には敬語を使うべきだ。それがこの社会のルールだろう?」
「あああっ!」
圧迫された優真の足に激痛が襲い掛かる。
土の砂利ついた感触一粒一粒が痛覚を刺激しているようだった。
佐倉は息を整えるとまだ拳銃に弾が装填されてあることを確認し、肩の力を抜くように回した。
「遠藤元喜、須貝清志……そして、キミの母親である望月夏海を殺害した犯人は、矢吹響子ではない」
「……」
肩を掴まれ、骨の髄を刺激するような痛みに耐えている響子は既にその真相に気づいているかのように佐倉に目をやった。
「何故ならば、それをやったのは……」
「私だよ」
「!」
かつてないほどの無機質な表情で美羽ははっきりとそう告白した。
それからキョトンとした丸々の瞳で優真を見た。
「な、なに……美羽さん、なんて」
「私が殺したんだよ。優真君」
優真と美羽は砂埃の舞うなか見つめ合った。
「嘘……だろ?」
「嘘じゃないよ? どうして嘘をつく必要があるの? 私は悪いことも恥じることもしてないのに」
「……そんな」
「だから、もしも優真君に『殺したのか?』って聞かれてたら『うん』って答えたよ」
と言ってニコッと笑った。
「……どうして、そんなことを」
「優真君のお母さんを救ってあげたの」
「救った……?」
「うん。痛くて苦しそうだったから。優真君のお母さん。だから殺すべきだと思ったんだ。そのほうが綺麗でしょ?」
ふたつの絶望が優真に降りかかって来た。
母親を奪われた絶望と、響子を最後まで疑い続けてしまった絶望だ。
母親が殺されるに至った動機を考えていないことはなかった。
殺人を目的とした無差別通り魔であることも思案していたが、何よりも可能性として捉えていたのは響子が犯人であることだ。
優真は夏海に嫌悪を抱き、憎んでいる。
響子はそういうふうに勘違いをしてしまい、母を狙い殺したのだ、遠藤たちと同様に。
というのが、優真がずっと推理していたことだった。
しかし、真相は違った。
全てを響子のせいにしてしまった自分はなんて愚かなのだ。
邪悪でどす黒く染まっている心にさらに罪悪感という色が混じり合って溶けた。
美羽は落ちている響子のスマホを拾い上げた。
画面にはカメラで撮影された『画像』があった。
『その画像』には美羽の部屋のクローゼット内にある大量の『刃渡り30センチ程のナイフ』が写っていた。
「響子さんはこれを見つけたから、私が殺したことに気づいたんでしょう?」
「……貴方は、許されない、ことをしたっ!」
「許されないことって何? 優真君とキスしたこと? 優真君とセックスしたこと? 自分の男を寝取られたことをそんなに怒ってるの?」
「最初は優真を誘惑したからだった。でも、そんなことじゃない。私が一番に許せないのは……」
響子は美羽を激しい怒りの眼差しで睨みつけ言い放った。
「貴方が優真の母親を殺したことだ!!」
「!」
響子の言葉に優真は驚き目を見開いた。
心の奥から湧き出た滴が涙腺を刺激した。
響子は何を言っている……?
「え? 本気で言ってるの、響子さん。意外。貴方があんな女の人のことを好きだったなんて」
「違う、そうじゃない。あの女がどうなろうと知ったことじゃない、でも――」
響子はさらに怒りの感情をむき出しにさせて美羽を睨みつけた。
「貴方は優真を悲しませた! 優真に涙を流させた! 優真の心を痛めた! だから私は貴方を絶対に許さない!」
「響子……」
一人雨に打たれている気持ちに陥った。
なんて自分は馬鹿なのだろうと、優真は唇と震わせ、悔しそうに拳を握りしめた。
響子はずっと自分のことをそんなにも想ってくれていたのか、と。
「意味が分からない」
美羽は眉を下げ、心の底から落胆したような溜息をついた。
「初めて会った時に気づいた。隠そうともしない貴方の雰囲気で。私やお兄ちゃんと同じ『異常』な人間だって。それなのに何をいってるの? わけがわからない」
「……」
美羽は苛立ちの表情を浮かべた。
「凄い。これは久しぶりの感情だよ」
「……」
美羽は響子の肩を掴んでいる手に女性とは思えないほどの力を加えいった。
「私、貴方のことが嫌い」
「……」
響子もその痛みを感じ取れていないのではないかというほど美羽を睨みつけ、二人は刺し違えた眼差しを向け合った。
同族嫌悪という言葉が、響子と美羽の脳内を巡った。
コイツは自分に似ている、でも理解できない、と。
「二人目だよ。ここまではっきりとした嫌悪を抱いて、人を殺すのは」
美羽はそう告げると響子の落とした折り畳み式ナイフを拾おうと手を伸ばした。
「やめろ。美羽」
「!」
佐倉の声が美羽を制した。
その言葉に優真も響子も少なからず驚きを見せた。
「? なんで、お兄ちゃん?」
美羽は不思議そうに首を傾げた。
「それには矢吹響子以外の指紋はいらない」
「……」
その発言で響子は全てを理解し察した。
この下種め、と心の中で呟いた。
「えっと、どして?」
と、もうひとつ小首を傾げた美羽を一瞥して、佐倉は指紋の残らない黒手袋を装着し続けた。
「矢吹響子は自分が真犯人であることがバレて、美羽を人質として僕から拳銃を奪い、止めに入った優真君を撃ち錯乱し、そのままナイフで殺害。その後、自分の過ちに気づき、優真君を追うように自害……と、うん。これでいい」
優真の顔は青ざめて、体温が下がるほどの悪寒がはしった。
「そんな……まさか」
佐倉が企てていることがわかった。
「そんな面倒なことにしなきゃダメなの?」
美羽は唇を尖らせてそういった。
「ダメなんだよ。何か不快な出来事が起きたら、それを一個人の中に封じ込めてリンチした挙句、処分してしまいたい。それが社会だ。お前だって、自分の夢叶えたいんだろ?」
「うん」
美羽は愕然とする優真を見て嬉しそうに笑った。
「優真君。私の夢の話、前にしたことあるよね?」
「……イラスト、を……」
優真は反射的に記憶にあった言葉を発した。
「そう! イラストレーターになること。でもね、もっと核というか、本質的な夢があるんだ。それはね……」
美羽は興奮した様子で続けたので、首から再び一筋の血が流れた。
それを掌で撫でるように掬い取り、舌で舐めとり、恍惚な笑みを浮かべた。
「死体をヌードデッサンすること」
「……」
背筋に悪寒が漂い、べったりと張り付いた。
「それも好きな人であれば、あるほどに気持ちよくて、官能的な刺激になる」
「……」
優真の身体が寒くて小刻みに震え始めた。
自分は確固たる恐怖を感じているのだということがはっきりとわかった。
「優真君の死体はちゃんと取っておいてね」
はしゃいでいるように嬉しそうな声で告げた。
「ああ」
佐倉は溜息をつきながら仕方ないとでもいうように答えた。
「全ての連続殺人事件の犯人は矢吹響子。これが僕の完璧なシナリオだ」
「……」
足をガタガタと震わせ、響子はしゃがみ込んだまま俯いた。
「……」
痛みと痺れが再び身体を蝕んでいるようだった。
「響子……っ!」
優真は必死に手を伸ばした。
どんなに手を伸ばしても彼女との間には絶望的なまでの距離があって、それは二人の悪魔の手によって決して縮まることはなかった。




