11 殺意
優真がやって来たとき、そこには誰の人影もなかった。
フッとひとつ息を吐き、とある店の軒下の壁に凭れかかった。
そうして雨音だけに耳をそばだてていると、ふと響子のことを思い浮かべた。
彼女のような人間が、どうして自分を好いてくれているのか今でもわからない。
それとも滝野が言っていた通り、本当に自分は利用されているだけだったのだろうか。
「……」
優真は近く水飛沫はねる水溜まりを見つめた。
そこに響子が映っている気がしたが、見えたのは自分の顔だった。
一瞬だけ、自分の顔が響子に見えた気がしたが、それほど自分は響子を求めてしまっているのかと複雑な気持ちになった。
でも、それも今日までだ。
優真は覚悟を決めていた。
今日、自分は響子にとって最低の人間になる。
この世界に新しく生を授かろうとしている命を、堕ろさせようとしているのだから。
「待てよ! 矢吹!」
路地裏の細い道を響子は必死に逃げていた。
乱雑に置かれたゴミ箱を倒しながら、後から追ってくる須貝を止めようとする。
「う……っ」
響子は荒く息を漏らして、壁に凭れた。
最初、逃げようとした瞬間、須貝に一撃肩を殴られた。
その鈍い痛みがズキンと刺激する。
「おいおい! 矢吹、もう終わりか!? もっと追いかけっこしよう!」
背後から須貝の影と声がやって来た。
背を流れる冷汗を感じながら、響子は壁伝いに歩き始めた。
「くそがっ!」
荒立つ声と邪魔な遮蔽物を蹴り飛ばす音が破裂音のように聞こえる。
壁に挟まれるように寄り掛かった梯子をなんとか抜けようと身体を小さくして沿った。
「あ……っ!」
梯子の狭さに肩が挟まれたので、その痛みに声が漏れた。
それでも響子はお腹を守るように手を当てた。
「矢吹、見つけた」
血走った目と不気味に笑っている須貝がすぐそこまでやって来た。
「あああっ!」
須貝は梯子を挟むかたちで、響子の肩を思い切り掴んだ。
響子を激痛が襲う。
まるでナイフを肩に刺され、えぐられているような痛みだった。
「いやああっ!」
「なんだ? 痛いのか? お前にも痛覚くらいはあるんだな!」
ギュッと須貝の力が増した。
「あああっ!」
響子は須貝の手から転ぶように梯子を抜けた。
そして、梯子を思い切り押した。
「!」
キーという壁を擦る金属音を鳴らして梯子は須貝もろとも倒れた。
「はあ……はあ……」
その様子を見つめ、響子は再び痛みに耐えながら逃げ出した。
背後で梯子をどかす音が聞こえた。
「ガキが!」
それに驚き、響子は足元に躓き転んでしまった。
その擦り傷から血がじわっと湧き出た。
「そうだそうだ! 逃げろ逃げろ! 限界まで追いつめて殺してやる!」
「……優真、助けて」
須貝の声を振り切るように響子は足を引きずって歩き始めた。
優真は近くの時計を見た。
いくらなんでも遅い、と思った。
そんなに時間がかかるものだろうか、と。
約束を取りつないだ時、響子はすぐに行くと言っていたし、距離的にも遠くはない。
響子が自分との約束をすっぽかす人間ではないことくらい知っている。
「……」
違和感を覚えた。
雨のせいではなく、自分と響子の世界が震えて悲鳴をあげている気がした。
「響子……?」
何故か目を閉じてみたくなった。
目を瞑り、暗い中で音だけに世界を集中させた。
今、響子はどこにいて何を感じているのだろう。
自分の心の中にいる響子を探した。
――はあ……はあ……。
聞こえてくるはずのない呼吸が聞こえてきた。
目を開けると辺りには雨音だけが響いている。
もう一度、目を瞑った。
――優真、助けて。
ハッとして、周囲を見渡した。
ふと路地裏へと続く道が気になり覗き込んだ。
「?」
そこにはビニル傘が2本、無造作に落ちていた。
雨に濡れ暗く湿気漂う路地裏で、響子は息を潜めるように歩いていた。
まるで迷路のようで、表に出ようと思えばそちらのほうに須貝がいるような気がしてならなかった。
先から須貝の姿が見えなかった。
汚らわしい声も自分を追ってくる音も聞こえない。
諦めたのか?
あの殺気は本物だった。
本当に自分を殺そうとしているのだということがわかった。
須貝の金槌に血がついているのに気付いた。
もしかしたら、奴はここに来る前に誰かに危害(もしかしたら殺害?)を加えているのかもしれない。
「……」
二手に道が分かれていた。
一方は、このまままっすぐ高架下に続いている行き止まりのような道。
もう一方は、曲がり角に入り、広いゴミ捨て置き場のような場所があり、さらに奥に続いているような道。
響子は後者を選んだ。
前方と後方を確認して、ゆっくりと曲がり角を曲がろうとした。
「見つけた」
「!」
その声と同時に金槌が響子の上から振りかぶられた。
咄嗟に手で守ったが、ぐしゃっと潰れたような音がした。
「いっ」
響子は必死に広場まで這って逃げた。
「くはははっ、無様だな。矢吹」
背後のすぐそばから奴の低い声が聞こえる。
「はあ……はあ……」
「なんだよ、お前。前はもっと威勢がよくなかったか? 俺を誘ってきたときのお前はどこいったんだよ、なあ!」
響子は振り向くことなく必死に這いずった。
「もしかして怖いのか? ビビってんのか? 殺されるかもしれないって! お前みたいな屑も死ぬのが怖いのか!?」
「はあ……はあ……」
須貝は響子の脇までやって来てその髪を掴んだ。
「なあ、答えろよ。アバズレ」
「!」
髪を思い切り引っ張られ、ブチブチと何本か抜ける音がした。
「おら!」
須貝はそのまま響子の顔を地面に叩きつけた。
「!」
響子は口を切ってしまったらしく鉄の味がした。
「こんなもんじゃねえぞ」
須貝は響子の潰れた手に全体重をかけて踏みつけた。
「ああああっ!」
響子の悲鳴が地を這った。
「俺が受けた屈辱はこんなもんじゃねえ! 全部お前のせいだ! わかってんのか!」
そのとき瞳にそれが映った。
今から何をされるのか、全てを察知したが、もう響子には抵抗する力は残っていなかった。
「死ね!」
須貝は思い切り響子の腹部を蹴り飛ばした。
「!!」
響子は声にならない叫びをあげた。
「死ね! クソが! クソガキが! 死ね! 死ね! 死ねえっ!」
何度も何度も須貝は響子の腹部を蹴り飛ばした。
痛みよりも何よりも、自分のなかに芽生えた何かが堕ちる音がした。
蕾が散る音がした。




