01 望月優真
頬に強い衝撃を受け、先日の雨でぐちゃぐちゃに濡れている土に倒れる。
口の中を切ってしまったらしく鉄の味がする。
唾を吐くようにしたら赤い液体が口から出てきた。
望月優真は倒れたまま、どんよりとした空を眺め、自分の境遇を嘆いた。
「いつまで倒れてんだよ、無能!」
そう言われたあと、今度は腹部に物凄い衝撃が圧し掛かっていた。
「う……っ」
どうやら蹴られたらしい。
優真は昼食に食べたものを全て吐きそうになった。
次に髪の毛を掴まれ、そのまま引っ張り上げられる。
すると優真の目の前に、遠藤の凍てついた表情が入ってきた。
遠藤はにやっとした不敵な笑みを浮かべながらいった。
「俺は5万つったはずなんだけど?」
優真はびくびくと表情を震わせながら、遠藤の首から上を見ることはできずにいった。
「母の……財布に、2万しかなくて」
髪の毛を掴んでいた田名部が鼻にかかったようなガサガサ声で、優真の耳元で叫んだ。
「望月君! 5万はお前が俺たちに払う友情料って決まってるはずだよね?」
大きな声だったので、優真の耳の中は沈黙が訪れた後もずっと震えていた。
「ご、ごめんなさい」
優真は振り絞るように声を出した。
しかし、その声など聞こえなかったように田名部の隣に立つ岸本がいった。
「随分安く見られてるんだな。俺ら」
冷たくて感情が見えなくなるような声のトーンだった。
「2万しかなくて……」
優真の声はどんどん小さくなっていった。
遠藤と田名部、岸本は優真の通うこの高校でも評判の悪い3人である。
最近では麻薬を所持していたということで、警察に補導されたという噂もある。
しかし、噂は噂でしかなく、実際は他校の気の弱そうな男子生徒に3人がかりで暴行を加えて病院送りにしたとか、また女子生徒にレイプ未遂したとか、どちらにせよ、良くない噂の飛び交う生徒たちであった。
優真はこの高校に入学した初期の頃から彼らに目をつけられていた。
確かに挙動不審の動作や、ぼさぼさの髪、いつまで経っても伸びない身長、その割に大きいサイズでぶかぶかの制服を身に纏う優真はあまりにも滑稽で、彼らの獲物になりやすかったのかもしれない。
『優真=抵抗しない臆病者』という彼らの判断は、正解だったのだ。
それからというもの優真の学校生活はまさに地獄だった。
暴力を受けるなどというのは日常茶飯事で、優真の持ち物だって壊され、何度も買い直し、そしてまた壊された。
優真自身どういう経緯だったかは忘れてしまったが、彼らは笑いながら優真の爪を剥がしにきたことだってあった。
あのときは、校舎の壁に反響するほどの悲鳴をあげ、激痛に苦しみ、何日も眠れない日が続いた。
そして今、もう何度目かもわからない友情料の徴収が行われている。
これを払わなければ優真は毎日すれ違うたびに暴力を振るわれ、また会わなければ、呼び出しに必ず応じなければならない。
これを払ったからといって、暴力が止むわけもなく、寧ろ彼らにとって金銭を略奪できる獲物が増えたというだけであるので、結局のところ優真の逃げられる道などなかった。
友情料は一律5万円。
バイトもしていない普通の高校生の優真には払えるわけもなかった。
彼らのなかでリーダー格の遠藤が舌打ちをしていった。
「やれ」
その言葉を合図に待ってましたとばかりに、田名部と岸本は優真をサンドバックにし始めた。
ふらふらと立っているのもやっとの優真の体中に激痛が走っていく。
彼らの拳が優真の体にめり込む度に、鈍い音が優真の中に響く。
傷と痣が増えていく。
そうしているうちに足が縺れ、優真は泥の水溜りに倒れた。
「ははははははは! だっさ!」
田名部と岸本の汚い笑い声が響いた。
水溜りに顔を打ち付けられ、荒い呼吸をすることしかできない優真を頭から踏みつけ、遠藤はいった。
「遊んで喉渇いたろ? その水、飲め」
優真は踏みつけられた頭を必死に動かし、首を振った。
「の、飲めない……!」
「は? 金も払えねえし、俺たちにも逆らうの? じゃあなんで生きてんだよ?」
「……飲めない」
その瞬間、優真の顔に遠藤の靴が直撃した。
顔全体に激痛が走り、熱くなった。
痛みとか悲しみとかを感じるよりも先に涙が反射的に流れた。
優真はぐちゃぐちゃに濡れた顔を押さえながら、声にならない叫びをあげた。
「飲むか、死ぬか、選べ」
「……」
優真は四つん這いの態勢になり、舌を出し、ゆっくりと泥の水溜りに近づいた。
そして、まるで犬のように泥水を舐め始めた。
「ぷ……あはははははははは!」
遠藤らは愉快そうに腹を押さえて、笑い転げた。
「気持ちわるっ! なんだコイツ! 泥水飲んでるよ! あははははは!」
「腹いてえ! あはははは!」
ごくごくと音を鳴らし、泥水は優真の喉を通っていく。
抵抗なんてできるはずもなかった。
自分を助けてくれる人間なんていないともわかっていた。
そんな人間がいるとするなら、それはどこか頭のおかしい人間だ。
もはや優真の目からは涙すら出てこなかった。
純粋すぎて、綺麗な優真は、耐えていればいつか救われる、と本当に心の奥底から信じていた。
窓の外は夕焼けがかり、部活をしている生徒たちの活気あふれる声が響いてくる。
そんな校舎3階の男子トイレに優真はいた。
個室のドアを閉め切り、喉の奥に指を突っ込んで、激しく嘔吐している。
茶色い液体が優真の嗚咽とともに、流れ出てきた。
涙と荒い息切れと痙攣を起こしながら、優真は便座に凭れかかり呟いた。
「もういやだ……」
トイレの水を流し、水道で手を洗う。
周りに水が飛び散らないように、気を遣いながら、時折廊下から聞こえてくる男子生徒の声にビクつく。
この世界の全てが自分を脅し、殺そうとしているかに思えて仕方がなかった。
ドアを開け、トイレから出る。
オレンジ色に輝く廊下を眺めて、誰もいないことに安堵した。
ほっと胸を撫で下ろしたそのときだった。
「あれ、望月?」
背後から急に声をかけられ、肩が硬直した。
心臓が口から飛び出そうなほど、激しく鼓動し始めた。
しかし、少しずつ冷静さを取り戻したとき、この声は遠藤らのものではないということに気づいた。
「どうしたんだ? 望月?」
優真は、ゆっくりとその声の主に向かって振り向いた。
そこにはきょとんとした表情を浮かべて、須貝清志という教師が立っていた。
40手前という歳でありながら、かなり若い風貌である。
教師という枠の中でお洒落に着飾り、清潔感漂う見た目をしていた。
キリッとした表情と甘く優しい言葉遣いから女子生徒からの人気も高い教師であった。
だが、優真は彼のことが苦手だった。
須貝は持っていた生徒名簿で腰を叩きながらいった。
「どしたんだよ? 望月、部活入ってないだろ? だったら早く下校して予習でもしてろよ」
優真は自分の姿を見つめ直した。
泥まみれで乾いた髪に、土で汚れた制服。
水で濡らしたハンカチでいくら拭いても、取れることはなかった。
「ん? 何か言いたいことでもあるのか?」
期待などしていなかった。
でも、その言葉は優真の心から、そして口から零れるように出てきた。
自然と、意図せずに言葉を発した。
「先生。助けてください」
小さくか弱い声だったが、須貝の耳に届いたようだった。
それと同時に須貝は優真の姿が普通の生徒たちよりも汚れていることに気づいた。
はっとした表情を浮かべると、須貝は微笑みを浮かべていった。
「汚れ。目立たないようにしとけよ」
そのまま優真の脇を何事もなかったかのように通り過ぎた。
須貝の口から出た言葉は、優真の真上から重くまるでギロチンのように押しかかり、最後の一本の気持ちが断たれてしまったような気がした。
そのまま窓の外の赤い夕焼けを茫然と眺めることしかできなかった。
優真は、重い足取りのまま下駄箱までやって来た。
汚く黒ずんだ上靴から、泥まみれになってしまった外靴へと履き替える。
楽し気な様子のテニス部の女子生徒たちが、和気あいあいとはしゃぎながら優真の横を通り過ぎていった。
まるで優真など視界にすら映っていないようだった。
透明人間にでもなった気分であった。
校門へ向かう通りを横に逸れて、青い木々が並んだ通りを歩いていく。
その先は教師や来客が使う駐車場へと続いていた。
優真は、下唇から血が滲みそうなほどの力で噛みしめながら、そこに停められている赤いスポーツカーを睨みつけた。
まるで優真の真っ白な心の奥底に眠るどす黒い何かが湧き出てきたような感覚にとらわれた。
「死ね……」
優真は小さな声で呟いた。
一瞬だけ、救われた気がした。
でも次の瞬間、心の中に小さな破片が転がり、自分を傷つけたような感覚がした。
それだけで罪悪感を覚えた。
しかし、一瞬の救済された気分を忘れられなかった。
「死ね……死ね……」
優真は、呟きながら赤いスポーツカーに向かっていった。
するとポケットから自宅の鍵を取り出し、赤いスポーツカーに一線の傷をつけた。
それは優真のストレス発散だった。
「……死ね」
もう一線、傷をつけた。
そして、深く深く深呼吸をした。
心が晴れ渡るような気がした。
そのときだった。
「何してるの?」
何者か、綺麗な鈴のような声が、優真の背後から発せられた。