03 復讐
女子トイレの個室に入り、渇いたタオルを必死に噛みしめ、響子は目を見開いて、自らの頬を殴った。
はあ、はあ、と息が荒くなるも、構わずに殴った。
何度も、何度も、本気で殴った。
響子の唇が切れ、頬が内出血する。
激しい痛みを感じたが、優真のことを想うだけで我慢できた。
彼はもっと痛い。
こんな痛みで優真を理解した気になんてなるな。
こんな痛みで優真と同じになった気になるな。
この程度の痛みで、優真との間に絆ができるなんて思うな。
響子は微笑み、さらに自分の頬を殴り続けた。
× × ×
ここは暗い部屋。
おそらく学校の校舎の中。
黒いカーテンで、全てが閉め切られ、完全な闇が支配した部屋。
そのとき、ブンッと何かが起動する音がした。
暗い壁面に乱れた映像が映り始めた。
そこは体育館の準備室のようだった。
一人の少女が佇んでいる。
なんだかひどく怯えた様子に見える。
ドアが開き、光が差し込んだ。
一人の男性の教師がやって来る。
半笑いで、激しく興奮しているかのように、肩で呼吸をしている。
少女は男性教師を見つめた。
何かを話しているようだが音は聞こえない。
男性教師は、準備室にカギをかけて、上着を脱ぎ捨てた。
激しい興奮の表情で、少女の肩を握りしめた。
少女は対抗するように手を払ったが、男性教師の力で押し倒された。
制服を乱暴に脱がされていく。
映像が撮られている場所からは、『少女が必死に抵抗するも、男性教師の力に制圧され、苦しんでいるようにみえる』。
次々と衣服を脱がされ、そして少女は――
「止めてください」
その声で映像は止まった。
暗い部屋に薄いライトが照らされた。
部屋の隅では、保健教師とおばさん教師が泣いている矢吹響子を宥めるように佇んでいる。
プロジェクターの前では、校長や理事長など、偉さを皺の数で表したような初老の男性が席に着いている。
そして、まるで裁判の被告人のように須貝が教室の中央に座っていた。
「須貝先生。まずこの映像に関しては、事実ですね?」
校長が口を開いた。厳しい声だった。
「そ、そんな、これは……」
須貝が怯えたように顔を横にふった。
「質問に答えてください。これは事実ですね?」
「は、はは……何かの間違いですよ。こ、これは私じゃない、きっと別の誰かの」
「どこからどう見ても、須貝先生に見えますが。ここまで顔がはっきりと映ってまさか別人だとでも?」
校長の声が低くなっていく。
「ち、違います!」
須貝は声を荒げ、立ち上がった。
「これは……これは、この女子生徒のほうから誘ってきたんだ! 私は嵌められた! 被害者は私のほうだ!」
須貝は物凄い剣幕で泣いている響子を指さした。
響子に向かって行こうとしたのだが、他の教師がそれを阻んだ。
涙を流し、殴られたかのように顔を腫らして、俯く響子の姿は、あまりにも可哀相で見てられないほどだった。
「わ、私……」
涙を必死に引かせながら、響子が口を開いた。
「私、須貝先生からはずっと殴られたり、暴力を振るわれたりして、こういう嫌な事を強要されてました……」
「!」
須貝は阻む教師を押し倒す勢いで力を込めた。
「違う……違う! 違います! 私は……本当にっ!」
「凄く……怖かった……!」
響子はさらに激しく泣いた。
「彼女が勇気を振り絞って、カメラを仕込んでくれたそうだ」
「教師の愚行を暴こうとするなんて、素晴らしい生徒じゃないか」
校長と理事長がそう口を開いたが、本心から褒め称えているような声ではなかった。
面倒事になりたくない、とでもいうような声だった。
「ぐ、愚行……って。わ、私は、今まで良き教師を目指してきたつもりでした! だから、これは間違いです! これは、本当に彼女の方から!」
バンッ、と理事長が机を叩いた。
須貝は身体をビクつかせた。
「いや失敬」
理事長は響子を見て、口元だけ笑って見せた。
「彼女は本当に学校というものをわかってくれている。安心したまえ、須貝先生。……いや須貝くん」
「え」
須貝は唖然とした。
「彼女ね、これ以上、事を荒立てる気はないそうだ」
「だが、まあ、その条件としてひとつ。まあ、条件として提示されなくとも、当然のことなのだが」
そういうと校長と理事長は、須貝を冷徹な目で見つめた。
「違う……何かの、間違いだ」
とりつかれたように呟く須貝の後方で、俯いたままの響子が、にやりと不気味にほくそ笑んだ。
プチッと、邪魔な害虫を押しつぶした音がした。
荷物をまとめ、須貝は校門へとやって来た。
どうしてこうなったのかと、ひたすらに頭の中で記憶を回転させたが、意味がわからなかった。
ただ浮かび上がってきたのは響子の顔である。
どうして。
何故。
自分が、響子にあんな仕打ちを受けなければならなかったのか。
その意味が全くわからなかった。
自分のことを好いていたから、響子は誘ってきたのではないのか?
だから、響子は身体を差し出してきたのではないのか?
そう思案していたとき、突然拍手の音が響いてきた。
一人の歓喜する拍手の音だ。
須貝は釣られ、振り向いた。
するとそこには響子が不敵な笑みを浮かべ、立っていた。
「矢吹響子……」
須貝は力なく名を呼んだ。
響子は拍手を止め、須貝を見つめた。思わず鼻で笑ってしまった。
その嘲笑に怒りを覚えたのか、須貝は響子を睨んだ。
「あれ? 怒ってるの? 須貝先生」
響子はぴょんと跳ねるように一歩近づいた。
「なんなんだお前は」
「……」
「何がしたかったんだ、お前は! 自分の身体をつかってまで、俺を教師から遠ざけたかったその理由はなんだ!」
「邪魔だから」
簡潔で子供のようなその一言に返す言葉も見つからず、口をあんぐりとさせた須貝は、響子を無視して立ち去ろうとした。
「そんなに怒らなくてもいいでしょう?」
響子の声は背後からついてくる。
「寧ろ、感謝してほしいくらいなのに」
須貝は立ち止まった。
「なんだと」
「だって、貴方みたいな人間には、ぐちゃぐちゃの車のほうがお似合いでしょう?」
響子の冷酷で無邪気で愉しそうな声が須貝の背中に突き刺さった。
全てを悟った。
あれを――自分の車を――やったのは、響子だと。
瞬間、怒りが湧きだし、響子の顔を殴ろうと固めた拳を振り上げたが、直前で動きを止めた。
響子はというとずっと須貝の顔を見つめている。
須貝は動揺するようにギョロっと目を動かし、周りを見渡した。
何かを気にかけていた。
そのとき、
「惜しかった」
と響子が呟いた。
そして、唇を震わせた須貝を嘲笑うように続けた。
「学校っていうのはさ、教師よりも生徒よりも体裁が大事なんだよ。汚れていないことを何よりも守りたがるの。だから、変な事までしちゃうと私のほうも消されちゃう。それは嫌だから、貴方だけをココから削るっていう条件を出したの。でもさ――」
響子はさらに須貝に一歩近づき、か細い声で告げた。
「そんなんで気が済むわけないでしょう」
「……どこだ?」
「? うん?」
「カメラはどこにあるんだ?」
という須貝の言葉に馬鹿にしたような笑いをかけて、響子はいった。
「さあ? 今度はどこに仕掛けていたでしょうか?」
響子は周りを一通り見渡した。
須貝はゆっくりと拳を下ろした。
「殴ってもよかったのに。……生徒をレイプした挙句、立ち去る寸前で暴行を加えたどうしようもない男には、この社会に居着く『席』もない」
「……」
「だからさ、貴方はこれから『椅子』になるしかない。貴方は一生腰を落とすことの許されない、使えなくなったら焼却処分されるだけの、誰も欲しがらない哀れな腐った椅子」
響子はまるで仮面のような不気味な顔で、にやりと笑った。
「さよなら。サンドバッグは優真じゃなくて、貴方だったみたいね」
響子はふわりと踵を返して、校舎へと帰っていった。
「……そういうことか」
須貝はぽつりと呟いた。
「はあ……はあ……」
残された須貝は、徐々に呼吸が乱れ始めた。
拳を固め、そして、
「くそがああああああああああああああ!」
と叫び、近くの駐車してあった車を殴ったり、蹴ったり、行き場のない怒りを吐きだしているようだった。
その姿を背中に感じて、また響子は頬を釣り上げた。
別の日。
生徒たちが集まる廊下の掲示板にひとつの張り紙がしてあった。
須貝清志の自主退職。
突然の通達に、須貝を好きだった子たちは涙を流していた。
その知らせを優真も目に入れていた。
慌てて響子を探しに走った。
廊下を一人歩いていた響子の背中に向かって、優真はいった。
「須貝先生。やめるんだって」
響子はゆっくりと振り向いた。
「そうだよ」
「知ってたんですか? 響子さんは」
「知ってたも何も、私がそうさせたの」
「どうして!?」
優真は真剣な眼差しを響子に向けた。
「もちろん、優真のため」
「え……?」
「優真にとって、このほうがいいでしょう?」
「僕はこんなこと、頼んでない」
響子は穏やかに笑ってみせた。
「でも願ってたはず。優真は私と同じで、そういう人間だから」
優真は何も反論できなかった。
須貝がこの学校からいなくなると知って、心の中の90%以上は喜びと安堵が支配していた。
そんな自分に罪悪感を抱いた。
「響子さんは、どうして僕のためにこんなことまで……?」
響子はふわりと優真に近づいた。
そして、優真の頬を優しく支えて、唇を重ねた。
驚いた優真に響子は告げた。
「好きだから、ってことにしておいて」
「……え!?」
ニコッと急に無邪気な笑みを浮かべて、響子は告げた。
「まだ終わりじゃない」
「?」
「次は、優真が一番嫌いな奴らを消してあげる」
頬を撫でるように掌をなびかせて、響子は優真に背中を向けた。
「この世から」
そう言い残し、響子は立ち去っていった。
残された優真は、響子の唇の感触と言葉をただひたすら心の中で反芻させたが、一向に意味を理解することはできなかった。
でもまた一つ、チッ、と心の中で何かが動いた気がした。




