八
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翌日――。
問題は起きた。
学校へ行くと、何か様子がおかしい。生徒たちが僕を見る目が変なのだ。一体何が起きているんだろう。席に座って待っていると、霧島さんが登校してきた。霧島さんにも不審な目線が注がれている。というよりも僕らが注目されているようだ。何が起きているんだろう。霧島さんも何かに気づいているかもしれない。
休み時間、僕が廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。声をかけたのは、佐伯さんだった。
「佐伯さん。どうしたんですか?」
佐伯さんは答えにくそうに告げた。
「猫屋敷君、ちょっといいかな。話があるんだ」
「構いませんけど……」
僕は廊下を抜け階段の方へ連れていかれた。人気がなくなりひっそりとしている。
「猫屋敷君、君携帯は持ってるかい?」
「いえ、持っていないです」
「そうか、実は面倒なことが起きている。私のクラスは一組なんだが、クラスで君とうさが放課後、文芸部でいかがわしいことをしているという噂が流れている。情報元をたどると、学校の裏サイトという掲示板が関係しているらしい。そこで、匿名で君とうさの関係を面白おかしく書いた人間がいるようだ」
「そ、そんな。それって霧島さんは知っているんですか?」
「いや、まだ知らないはずだ」
一体誰がそんな噂を流したのか?
……決まっている。恐らく二階堂亜里沙だろう。これは二階堂さんなりの復讐なのだ。敵は強大だ。このまま変な噂が立てば、霧島さんの評価は下がる。この噂は事実無根の嘘だ。僕と霧島さんは何もしていない。部室で平和に本を読んでいるだけだ。けれど、一旦立ち上った噂が消えるのは、なかなか難しい。一旦流れてしまった噂は、もう止められないだろう。少なくとも、この噂を霧島さんが知るのは時間の問題だ。
僕が悩んでいると、それを見ていた佐伯さんが口を開いた。
「猫屋敷君。君は何か知っているのだな」
「え、えぇ。噂を流した犯人の心当たりはあります」
「それは誰だ?」
「教えたらどうするんですか?」
「決まっているだろ、嘘だと認めさせる。それで誰なんだ?」
言ってもいいのだろうか? 僕はギリギリまで悩んだ。佐伯さんとの付き合いはまだ浅い。それでも、佐伯さんが信頼できる人物であるのはわかる。言っても問題ないだろう。
「二階堂亜里沙さんです。実は色々ありまして」
「二階堂亜里沙か……。それでなぜ彼女がこんな噂を」
「佐伯さんは霧島さんの好きな人を知っていますか?」
「うむ。なんとなくはだが」
「実はその好きな人が、二階堂さんと一緒なんです。つまり、根本卓也。それで霧島さんが卓也にアプローチをかけているから、それを根に持ってこんな噂を流したんです」
「何、うさは根本君が好きなのか? それは意外だった。てっきり違う人かと」
「そうなんです。でも、二階堂さんを刺激するのはよくありません。何か方法を考えないと」
「わかった。私も少し調べてみよう。今日の放課後、文芸部に顔を出す。その時までうさを頼む」
「わかりました」
こうして話は終わった。
僕と霧島さんを見る視線は一層強まっていく。
そんな中で訪れたつかの間休息、昼休みである。
霧島さんは、お弁当を作ってきていた。もちろん、卓也に……。のはずだった。
「これ、猫屋敷君の分」
そう言い、霧島さんは弁当箱を取り出した。それを僕に向かって渡した。
「え? どうして僕の分まで?」
「一人分も二人分も一緒みたいなものだから、全部あまりものだし。気にしないで」
「あ、ありがとう」
僕と卓也、霧島さんは三人で食事をする。
今のところ、卓也と霧島さんは噂に気づいていないようだった。でも、霧島さんは勘がいいようで、自分を見る好奇の視線に気づいていた。
「何か、変なのよね。今日特に」
すると、卓也が尋ねる。
「変って、何かあったの?」
「よくわからないんだけど、やたらと見られている気がするのよ。なんか変な感じ」
「優希、何か知ってるか?」
卓也が僕に向かって話を振る。
僕はその内容を知っている。だけど、この場では言えない。噂によって卓也の霧島さんへの評価が変わるとは思えないが、細心の注意を払っておいた方がいいだろう。
「わからない。気の所為じゃないかな」
霧島さんは不満そうに言った。
「あたしだけじゃないのよ。どうやら、猫屋敷君も見られている気がする」
鋭い。ずっとは隠しておけないな。やはり、放課後話すべきだろう。
それでも、その後を考えないとならない。霧島さんはおとなしい印象があったけれど、それは間違いで、実は熱い少女だ。曲がったことが大っ嫌いだから、今回の噂に二階堂さんが関わっていると知れば、何らかの行動に出るだろう。もしかしたら、本気で暴力を振るうかもしれない。そうなったら、いろいろ問題がある。
昼休みは何とか隠し切った。二階堂さんが僕のクラスに来るわけでもなかったし、今のところ平和である。
放課後――。
僕の元へ霧島さんがやってきた。
「猫屋敷君、部活行きましょ」
「う、うん。実は、部活で話があるんだ。聞いてほしい」
すると、霧島さんは訝しい視線を送った。
「話? なにそれ」
「とにかく教室へ行こう。そこで話す」
僕らは文芸部の教室へ向かう、まだ、誰もいなかった。話では佐伯さんも来る予定だったけれど、来てはいない。僕は机に鞄を置き、ゆっくりと席に座った。霧島さんもどっかと席に座り、僕の方を向いた。
「それで、話って何?」
「う、うん。実は――」
僕はそこで、学校の裏サイトで、文芸部に不穏な噂が立っていると説明した。霧島さんの表情がみるみると鬼と化していく。このままでは弾丸のようなスピードで二階堂さんの元へ行きそうだったから、僕は必死に霧島さんを落ち着かせた。
「それって絶対二階堂の仕業よね。こんな陰湿な嫌がらせ、あいつしかない」
そう言うと、霧島さんは立ち上がった。目が燃えるようであった。悔しくてたまらない様子だった。
「ちょっと行ってくる。まだ、教室にいるかもしれない」
真剣な声だった。不味い。止めなくちゃ。
「待って、でもまだ証拠がないんだ」
「証拠ってこんな噂を流すなんてあいつしかいないでしょ」
「すっ呆けられたら、意味がないよ。それに僕らは実際に何もしていない。だからこのまま堂々としていればいいんだよ。噂なんていずれ止むから」
「だけど、このままあいつを許してはおけない。ぎゃふんと言わせないと」
「猫屋敷君の言う通りだ。少し待て」
ガラッと教室のトビラが開いた。
外から佐伯さんが入ってくる。
「心。どうして止めんのよ」
「まだ証拠がない。それに……」
佐伯さんの後ろに人影があった。そこには、先生が立っていた。
水島翠先生。国語の教師だ。一体なぜここに……。
「霧島さん、話は聞きました。厄介なことに巻き込まれたみたいね」
と、水島先生は言った。
水島先生は、まだ二十代の若い国語の先生で、美人だから人気がある。僕らのクラスの国語の先生ではないが、男子生徒の中には、水島先生の授業を受けたいと熱望している生徒も多い。
「先生。どうして、いつも来ないのに」
「完全に私の監督責任ね。実はね、この噂は教職員の間でも問題になっているの。それで、申し訳ないんだけど、噂が収まる一週間、文芸部は活動休止になりました」
「そ、そんな! あたしたち、何もしていないのに」
「わかってる。霧島さんが真面目な生徒だっていうのは、先生がよく知っているわ。だけど、ちょっと問題が大きくなってしまったの。先生も、何とか文芸部が活動できるように頑張るから、一週間だけ活動を控えてほしいの」
「酷いです。先生は味方だと思ってたのに」
そう言うと、霧島さんは、鞄を持って部屋を飛び出して行ってしまった。
その後を、佐伯さんが追う。
残されたのは、僕と水島先生だけだ……。居心地の悪い空気が流れる。
そんな中、水島先生が口を開いた。
「あなたが猫屋敷君ね。新入部員の」
「は、はぁそうです。まだ、入って間もないですけど」
「私が文芸部の顧問の水島翠です。あんまり活動に参加できていないんだけどね。文芸部は文科系の部活動だから、基本的に生徒主体で動いているの。でもそれが問題だったみたい」
「ちょっと待ってください。先生は例の噂を信じているんですか?」
「いいえ。きっと心無い生徒が流した噂でしょう。霧島さんは真面目な生徒だもの。変な真似はしないわ。それはわかってる」
「じゃあ、どうして休部になってしまうんですか。おかしいですよ」
「大人の事情というものよ。でも、一週間だから、我慢してくれるとありがたいわ」
「せ、先生は味方なんですよね。僕らの」
「もちろん、今後はこんな風にならないように、定期的に部活動には参加するから心配しないで。とりあえず、今週一週間は休部。だから、今日は猫屋敷君も帰宅して」
「わ、わかりました。じゃあ、帰ります」
何というか理不尽だ。僕らは何も悪くないのに……。
僕は水島先生に頭を下げてそのまま帰宅する。玄関へ向かうと、下駄箱の前で佐伯さんが待っていた。
「うさは帰ったよ。それにしても参ったな」
と、佐伯さんは行った。それを受けて僕は答える。
「そうですね。僕は悔しい。何もできないのが……」
「実はな、こんな話を聞いた。二階堂亜里沙の件だ」
「何かあったんですか?」
「二階堂亜里沙は、一週間前に根本卓也に告白したそうだ。結果は玉砕だったらしいけどな。プライドが高い二階堂のことだ、妬んでうさを攻撃したんだろう」
「そ、そうなんですか。それは意外ですし、知りませんでした」
卓也からは一言も二階堂さんの話を聞かなかった。僕と卓也は友達だけど、深いところまでお互いを知っているわけじゃない。小学生時なら話はわかるけれど、思春期を迎えた中学生になれば、秘密にしたい話だってあるだろう。
そうか、これで一つ謎が解けた。二階堂さんは捨て身の覚悟があるんだ。既に卓也に対して玉砕しているから、今更卓也の評価なんて気にしない。自分の告白が認められなかったから、今度は、同じ卓也を好きでいる霧島さんを邪魔しようとしているんだ。全神経を研ぎ澄ませて……。
厄介だな。二階堂さんには失うものが何もない。中学の裏サイトの存在は知っているけれど、警察でも介入しない限り、犯人を見つけるのは難しいだろう。もちろん、今回の一件の犯人は二階堂さんに違いない。だけど、白を切られたらどうしようもない。このまま噂が引くのを待つしかないのか。
「猫屋敷君、君はどうする?」
と、佐伯さんが聞いてくる。
どうするか? 本当なら、霧島さんの家に行った方がいいんだろうか? 霧島さんは深く傷ついている。二階堂亜里沙に攻撃された痛み。それだけでなく、信頼していた先生に守ってもらえなかった痛み。二重になって彼女を苦しめているのだ。
励ましてやりたい。でも、そのやり方がわからない。僕にもっと社交性があったなら、何か気の利いたジョークでも飛ばして、その場を盛り上げられたかもしれないけれど、僕にはそんなスペックはない。むしろ、今霧島さんに会ったら、余計に彼女を興奮させてしまうかもしれない。
「今日は帰ります。夜、霧島さんにメールだけはしようと思いますけど」
「そうか……。しかし面倒なことになったな。水島先生まであんな感じでは、うさは深くショックを覚えただろう」
「はい。そうだと思います。僕もできる限り励ましてみます」
「よろしく頼む。文芸部の一員として、うさを助けてやってくれ」
そう言うと、佐伯さんは去っていく。体操着を着ていたから、これから部活に行くのかもしれない。バスケ部のエースだから、きっと忙しいんだろう。僕は彼女の背中を見送ると、そのまま家路についた。少し、霧島さんが気になった。家にはいかなくても、家のそばに行ってみよう。そう考え、駅の方へ向かった。
駅前にある、ゲームセンターのそばを通り抜けようとした時、僕は意外な人物に出くわした。その人物とは、二階堂さんだった。一人でいるのだろうか? UFOキャッチャーをしている。そんな彼女のそばに、ガラの悪い高校生たちが近づいて行った。
僕はゲームセンターの前でその光景を見ていた。
高校生は、二階堂さんに何か話しかけている。その姿を見ている限り、知り合い同士のようには見えない。多分ナンパだろう。二階堂さんは顔がいいから、声をかけられるケースが多いはずだ。二階堂さんは、UFOキャッチャーを止めて、すたすたと歩き去ろうとした。しかし、ここで問題が起きた。高校生の一人が、二階堂さんの腕をつかんだのだ。
ビクッと背筋を震わせる二階堂さん。その時だった。僕と彼女の目線が合ってしまった。その瞳は、怯えているように見えた。女子中学生が、男子高校生に囲まれてビビらないわけがない。
因果応報。
一瞬だけど、そんな思いが頭をよぎった。神様は見ていて、二階堂さんに罰を与えたのではないか。
「離してよ変態!」
二階堂さんが声を出す。
男子高校生たちはけらけらと笑っている。皆、服装が全体的にチャラい。もしかすると不良なのかもしれない。
「変態? なめんなよ。ちょっと誘っただけじゃん。一緒に遊ぼうよ」
「嫌よ。とにかく離してよ」
「UFOキャッチャーよりも面白いものがあるから、一緒に行こうぜ」
不良の一人が強引に二階堂さんの肩に手を回す。
二階堂さんのピンチ! 僕は目が合った手前、その場から動けなかった。何とかしなくちゃ。警察を呼んでくればいいのか? ゲームセンターにいる客たちもトラブルを避けるために見てみぬふりをしている。怖い。僕はチビでデブだ。喧嘩なんてできない。
でも……。ここで二階堂さんを知らんぷりしたら、きっと一生後悔する。
動け! やるんだ。
僕は意を決して不良に向かって言った。
「あ、あの。や、止めてください」
声が裏返った。かなりかっこ悪い。
不良は三人。その内の一人が僕を睨みつけ、思い切り突き飛ばした。
「なんだチビ豚。引っ込んでろよ」
「僕のクラスメイトなんです。嫌がってるじゃないですか」
「正義面か、俺さ、そういうヤツが一番嫌いなんだよね」
二階堂さんを掴んでいた不良の一人が、僕に向かって襲い掛かってくる。
ドス!
思い切り腹を殴られた。
「ぐはぁ」
僕はひざをついた。かなりの衝撃、シャレにならない。
けれど、一瞬であるが隙ができた。その隙を見計らって二階堂さんが、不良の足を思い切り踏みつけ、僕の手を取り、一目散に逃げだした。
「あ、待て!」
不良が追いかけてくるが、神様が僕らに微笑んだ。少し走ったところに交番があったのだ。二階堂さんは、交番を見るなり、立っている警官に助けを求めた。
「お巡りさん、助けてください」
警察官の姿を見て、不良たちは逆方向に逃げ出した。なんとか窮地を脱したようだ。警察官は、僕らに何があったのか尋ねてきた。そこで、二階堂さんが不良に絡まれたことを説明する。幸い、不良が逃げたため、僕らはすぐに解放されたが、中学生が学校帰りにゲームセンターに行くもんじゃないと逆にお灸をすえられた。両親には言われなかったが、軽く説教されて僕らは交番を後にする。
二階堂さんと二人で、駅前の道を歩く。何か変な感じだ。
「あんた。何やってんの?」
と、徐に二階堂さんが尋ねてきた。
「何って、僕もよくわかりません。ただ、助けなくちゃって」
「あんな奴ら、私だけでも大丈夫なのに、カッコつけちゃって。だから殴られるのよ」
「う、うん。そうみたいだね。でも無事で何よりだよ」
そう言うと、二階堂さんはぷいと横を向いた。
これは降ってきたチャンスだ。今彼女に聞かなければならない。
「ねぇ。一ついいかな?」
僕は問う。
すると、二階堂さんは不満そうに声を出した。
「何よ」
「君だろ。文芸部の悪い噂を流したのは」
……。
一瞬だけど、間があった。
その沈黙は、僕の答えを肯定しているように思えた。つまり、犯人は二階堂さん。
「だったらどうするの? 先生にでも言えば。別にいいし」
「もうしないと約束するなら、先生には言わないよ。二階堂さん。君は本当は勇気がある人なんだ。それなのに……」
「私に勇気? 何言ってんの?」
「君が根本卓也を好きだというのは知っている。そして、その恋に敗れたことも。でもさ、人に思いを伝えるのってかなり勇気がいるよね。僕は無理だ。それなのに、君はちゃんと自分の思いを伝えたんだ。かなりすごいよ」
「なぁんだ、知ってるんだ。チビ豚のくせに芸能キャスターみたいね。そう、私は根本君に告ッた。でもダメだったんだよ」
二階堂さんは空を見上げた。僅かだけど、目元が濡れている気がした。
「二階堂さん。君は強い人だ。だから、きっといい人と巡り合えるよ。僕に言われたって仕方ないかもしれないけれど……。もう、こんな変な噂を流すのは止めてほしい。僕はただ平和に過ごしたいだけなんだ」
「チビ豚のくせに調子いいこと言わないで!」
二階堂さんは、そのまま立ち去ってしまった。
僕は追いかけられなかった。殴られた腹だけが妙に痛かった。でも悪い気はしない。守れたんだからよかったとしよう。